親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より

浄土真宗親鸞会が、退会者との法論に惨敗逃亡した記録 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」より抜粋

mixiにおける三願転入の法論14

2010年4月22日

 

昨日、自力と他力について少し述べましたが、ここは非常に重要ですので、昨日紹介しました『末灯鈔』のお言葉について、再度みてみましょう。

 それ浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺(印度)の論家、浄土の祖師の仰せられたることなり。 
 まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。
 しかれば、わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべからず、凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわがこころよければ往生すべしとおもふべからず、自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり。

参考までに、浄土真宗教学研究所の現代語訳も載せておきます。

 浄土真宗の教えでは、往生を願うものについて他力のものと自力のものとがあります。このことはすでにインドの菩薩がたをはじめ、中国や日本の浄土の祖師がたが仰せになっていることです。
 まず自力ということは、行者がそれぞれの縁にしたがって、阿弥陀仏以外の仏の名号を称え、あるいは念仏以外の善を修めて、自身をたのみとし、自らのはからい心で、身・口・意の三業の乱れをとりつくろい、立派に振舞って浄土の往生しようと思うことを自力というのです。また他力ということは、阿弥陀仏の四十八願の中で、真実の願として選び取ってくださった第十八の念仏往生の本願を疑いなく信じることを他力というのです。それは阿弥陀仏がお誓いになられたことですから、「他力においては義のないことをもって根本の法義とする」と、法然上人は仰せになりました。「義」というのは、はからうという言葉です。行者のはからいは自力ですから、「義」というのです。他力とは、本願を疑いなく信じることで間違いなく往生が定まるのですから、まったく「義」はないということです。
 ですから、この身が悪いから、阿弥陀仏が迎え取ってくださるはずがないと思ってはなりません。凡夫はもとより煩悩を身にそなえているのですから、自分は悪いものであると知るべきです。また自らの心が善いから、往生することができるはずだと思ってはなりません。自力のはからいでは、真実の浄土に生れることはできないのです。

如何でしょうか。自力といいましても、いろいろあるのです。親鸞会では、信一念で、すべての自力が一度に廃るという理解をしていますが、「余の仏号を称念」することは、浄土門に入る以前の話ですし、「余の善根を修行してわが身をたの」むことも、浄土門では最初に捨てるべきものです。信一念まで、「余の仏号を称念」することを信じているとでも思っているのでしょうが、余りにも御粗末です。

自力のあるままでは、報土には往けません。自分の行いの善悪を問題にすることが、自力のはからいです。善をしたら信仰が進むとか進まないとか、19願を必ず通るのだからとか、そんな低レベルの考えは、早く捨てないといけません。

親鸞会の教義は、言葉は浄土真宗でも、意味が全く違います。敢て言えば、親鸞会の理解は日蓮宗に近いと思います。

現会員さんは、親鸞聖人の御著書も読んだこともなく、言葉の意味も何も知らない高森会長をいつまで信じているのでしょうか。
親鸞聖人の御著書を拝読しましょう。『御文章』を拝読してください。
そうすれば、高森会長が如何に無知であるかがよく判ります。

mixiにおける三願転入の法論15

2010年4月25日

 

mixiでの三願転入の議論が事実上終了しました。こうへい氏は自分の主張の説明もせず、解釈が普通でないことに対する説明も裏付けも全くなく、一方的に質問をし続けましたので、こうへい氏との議論を打ち切ったということです。

最後にこれまでの議論の流れがまとめてありましたので、紹介しておきます。

もともと議論の中心は、要門釈のお言葉に対する解釈の違いです。

143においてこうへいさんの

>御本典の「化土巻」の要門釈に19願をお話しくだされている 
>「ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、 
>阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。」 
> 
>と言われている「群生海」とは、19願文の「十方衆生」です。 
>19願の相手は、「群生海」なのです。 
>明らかに、 
>19願の対象は、「迷えるすべての人」と言われていると思います。

との発言から19願の対機の議論が始まりました。 
それに対してるぅでるさんが172で

>「しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、 
>真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、 
>虚なるものははなはだもつて滋し。」 
> 
>あなたが引用した要門釈のお言葉の前半部分がこれです(僕も引用したとおりです)。ここが抜けているから、そのようなおかしな疑問が出てくるのです。 
>このお言葉の意味は、 
> 
>外道の人が半字教(小乗仏教)、満字教(大乗仏教)、権教(四車家の立場から聖道門内の三乗)、 
>実教(四車家の立場から聖道門内の一乗)、つまり堅出堅超に入るといえども、真実のものは 
>はなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。 
> 
>そして次の 
> 
>「ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく 
>諸有海を化したまふ。」 
> 
>に続くのです。 
>ですから、要門釈のお言葉で「聖道門の人が対象」と親鸞聖人はハッキリ仰っているのです。

と反論され、その後『平等覚経』『大阿弥陀経』『選択本願念仏集』『西方指南抄』『尊号真像銘文』を根拠として加えられました。 
るぅでるさんの解釈は、るぅでるさん独自のものではなく、『真宗大辞典』等にも代表されるように、先哲方に共通したごくごく「普通」の解釈です。

親鸞聖人は、19願を聖道門の人を浄土門に誘引する願とみられ、浄土門の人に対しては、化土往生を誓われた願であるから18願を願いなさい、としか仰っていないとるぅでるさんは主張されています。

しかし、こうへいさんは、るぅでるさんとは【解釈が異なる】と言われて、どこがどう違うのか説明をされずに出された根拠が、『一念多念証文』でした。

そこで、るぅでるさんは『教行信証』化土巻をもとに、先哲方と同じ「普通」の解釈をすれば、『一念多念証文』のお言葉はるぅでるさんの主張の正しさを証明するものでしかありません。

それに対してこうへいさんは、【解釈が異なる】といわれるのみで、どこがどう異なるのか一切説明されません。

また、『一念多念証文』の「方便の善」とは「宿善」とこうへいさんは解釈されましたので、私が『教行信証』化土巻の「如来の異の方便、欣慕浄土の善根」というお言葉を挙げて、「宿善」という意味ではない、と説明しましたが、こうへいさんは、【解釈が異なる】といわれるのみで、やはり説明されません。

一方、根本的な問題としてこうへいさんが「親鸞聖人の三願転入の教え」と度々言われましたので、法然聖人、覚如上人、蓮如上人も三願転入については全く仰っていないし、親鸞聖人も御自身の体験として『教行信証』化土巻にのみ仰っているだけなので、「親鸞聖人の三願転入の教え」という親鸞聖人のお言葉を示して下さい、との度重なる質問には、【一切無視】です。

こうへい氏は、得意(?)になって、未だに捨自帰他について質問し続けていますが、こうへい氏は、自力の意味さえも「普通」ではないので、最早、言語が異なっていると表現した方がよいと思います。同じ漢字を使っても、日本語と中国語では意味が異なることがあります。その状態です。

親鸞聖人は『御消息集』の中で、法然上人のお言葉を紹介しておられます。

文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」

学者ぶった議論をして、いかにも賢そうに振舞っている人に対して、往生はどうであろうか、と法然上人が仰ったそうですが、これはまさにこうへい氏のことでしょう。賢そうに振舞ってはいますが、殆どが根拠のない空論でしかないところは、「文沙汰して」とは言い難いかもしれません。

親鸞会出身者は、言語の違いを修正するのに時間が掛ると思いますが、直接、お聖教を読むことで、少しずつ正しい意味が判ってくると思います。当ブログでも、そのお手伝いができるように、多くの根拠を挙げて説明していきたいと思っています。

もう一つの法然上人のお言葉

浄土宗の人は愚者になりて往生す

とありますように、善知識方の仰ったことを、素直に、そのまま受け取ることが大事です。

mixiにおける三願転入の法論16

2010年4月27日

 

mixiでの三願転入の議論は決着していますが、自力のことについて論点をずらしたいこうへい氏がしつこく書いていますので、親鸞聖人のお言葉から、自力について再度まとめておきます。

下手な解説を加えるよりも、そのまま読まれた方がよろしいとは思いますが、参考までに現代語訳を付けておきます。

『唯信鈔文意』

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。

(現代語訳)
自力の心を捨てるということは、大乗・小乗の聖人、善人・悪人すべての凡夫、そのような色々な人々、さまざまなものたちが、自分自身を是とする思いあがった心を捨て、わが身をたよりとせず、こざかしく自分の悪い心を顧みたりしないことである。それは具縛の凡愚・屠沽の下類も、ただひとすじに、思いはかることのできない無礙光仏の本願と、その広く大いなる智慧の名号を信じれば、煩悩を身にそなえたまま、必ずこの上なくすぐれた仏のさとりに至るということである。

『一念多念証文』

自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。

(現代語訳)
自力というのは、わが身をたのみとし、わが心をたのみとすることであり、自分の力を頼って行にはげみ、自分がつくるさまざまな善を頼りにする人のことである。

『末灯鈔』

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。

(現代語訳)
まず自力ということは、行者がそれぞれの縁にしたがって、阿弥陀仏以外の仏の名号を称え、あるいは念仏以外の善を修めて、自身をたのみとし、自らのはからい心で、身・口・意の三業の乱れをとりつくろい、立派に振舞って浄土に往生しようと思うことを自力というのです。

教行信証』化土巻

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

(現代語訳)
定善の専心・散善の専心とは、罪を恐れ自分の善をあてにする心で本願力を願い求めるのであり、これを自力の専心というのである。

親鸞聖人は自力についていろいろの言い方をされています。

・みづからが身をよしとおもふこころ
・わが身をたのむ
・わが心をたのむ
・あしきこころをかへりみる
・余の仏号を称念する
・余の善根を修行する
・身・口・意の三業の乱れをとりつくろう
・めでたうしなす
・罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す

かなり具体的なところまで言及されています。最後の「罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す」は、親鸞会の教えと真っ向から対立するものです。

自力が廃るまでは「罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す」が正しいのだ、と主張するでしょうが、そんなややこしいことをどこにも仰っていません。捨てよ、といわれたら、捨てればいいのです。それを、どうこういっているのが、「あしきこころをかへりみる」です。

自力を捨てるのは最後は阿弥陀仏のお力ではありますが、自分で捨てられるものは素直に捨てるのです。捨てようと思ってもどうしても捨てられない自力を阿弥陀仏にお任せするのです。それが捨自(自力無功)であり帰他(他力全託)なのです。

愚者になりて往生す」とは、そういうことだと味わっております。

mixiにおける三願転入の法論17

2010年4月30日

 

行者のはからひは自力なれば義といふなり」のところで、『末灯鈔』の

如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。

を紹介しました。法然上人の「他力には義なきを義とす」というお言葉を、親鸞聖人は上記以外でも何回も使われています。

正像末和讃

聖道門のひとはみな
 自力の心をむねとして
 他力不思議にいりぬれば
 義なきを義とすと信知せり

「自然法爾章」
「法爾」といふは、如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ。この法爾は、御ちかひなりけるゆゑに、すべて行者のはからひなきをもちて、このゆゑに他力には義なきを義とすとしるべきなり。

『三経往生文類』

これをこころえて、他力には義なきを義とすとしるべし。

『如来二種廻向文』

「他力には義なきをもつて義とす」と、大師聖人(源空)は仰せごとありき。

『末灯鈔』

すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。

つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。

また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは、行者のおのおののはからふことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。このこころのほかには往生に要るべきこと候はずとこころえて、まかりすぎ候へば、人の仰せごとにはいらぬものにて候ふなり。

『御消息』

また弥陀の本願を信じ候ひぬるうへには、義なきを義とすとこそ大師聖人(法然)の仰せにて候へ。 
かやうに義の候ふらんかぎりは、他力にはあらず、自力なりときこえて候ふ。また他力と申すは、仏智不思議にて候ふなるときに、煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりを得候ふなることをば、仏と仏のみ御はからひなり、さらに行者のはからひにあらず候ふ。しかれば、義なきを義とすと候ふなり。義と申すことは自力のひとのはからひを申すなり。
他力には、しかれば、義なきを義とすと候ふなり。

親鸞聖人はこのように好んで使われたお言葉ではありますが、法然上人は頻繁に仰ったとは必ずしもいえません。現在確認できるものでは、

「護念経の奥に記せる御詞」の

浄土宗安心起行の事、義なきを義とし、様なきを様とす。浅きは深きなり。只南無阿弥陀仏と申せば、十悪五逆も、三宝滅尽の時の衆生も、一期に一度善心なきものも決定往生遂るなり。釈迦弥陀を証とす。

だけです。他にもあったという記録はありますが、現在では不明です。親鸞聖人は、これこそが捨自帰他を表す最適のお言葉であると思われたのでしょう。

行者のはからいは自力であり、はからいのないのが他力なのです。
はからいとは、もちろん阿弥陀仏の救いに対してのことです。18願に誓われていないこと、成就文で教えられていないこと、善知識方の仰っていないことを、これが正しい教えなり、と考えることは”はからい”以外の何物でもありません。

他力には義なきを義とす

こうへい氏のような屁理屈は一切不要です。教えられたことをそのまま受け取るのです。

mixiにおける三願転入の法論18

2010年5月2日

 

mixiでは、こうへい氏が一部の質問に答えました。が、ぼこぼこにされています。

1.「親鸞聖人の三願転入の教え」という親鸞聖人のお言葉については、

教行信証』全体

というふざけた回答は論外ですが、もう一つは解説が必要です。

4.『一念多念証文』にある「浄土の方便の善」が「宿善」という根拠 

これは、確かに申し上げました。 
根拠は、 

「いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れりと見えたり」(御文章) 

の一言で充分でありましょう。

親鸞会の現会員、元会員の人は、納得してしまうかもしれません。しかし、大変な間違いです。
ここは、
「親鸞会教義の誤り」
宿善とは4

を読まれるといいですが、mixiの中で、sutybi氏が簡単に解説されています。

蓮如上人が仰る宿善(『御文章』3帖目第12通)

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。 
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

蓮如上人が仰っている宿善とは、『口伝鈔』の

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

を受けて仰っています。 
宿善の機とは、「浄土教を信受する機」のことです。つまり、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられる人は、宿善の機であり、聖道門の教えを信じて、また聖道門から浄土門に入りながらも法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えを素直に信じられない人は、無宿善の機ということになります。 
蓮如上人の仰る「宿善にかぎれり」とは、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられるかどうかです。

いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり」と、「浄土の方便の善」とは、直接の繋がりがないのです。

でも、

『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。

とあるから、過去に行ってきた善ではないのか、と思われる方があるかも知れません。しかし、「善本」の意味を考えられれば判られると思います。親鸞会でも「善本」とは、名号と教えています。根拠は、『教行信証』化土巻に

善本とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。ゆゑに善本といふなり。

とある通りです。また「若人無善本不得聞此経」のお言葉を、親鸞聖人は化土巻の真門釈のところで引いておられます。要門釈ではありません。
高森会長も『会報 第三集』に

係念の宿善というのは過去に於て自力ながらも心を阿弥陀仏一仏にかけて念仏してきた善根をいい、諸仏の浄土を願わず、ただ弥陀一仏に念を係けて来たのだから係念といわれる。
『大無量寿経』には、これを「若人無善本」といい、二十願には「植諸徳本」と説かれている。『定善義』に「過去已曾・修習此法・今得重聞」とあるのも、この係念の宿善を示すものである。

と書いています。参考までに「係念の宿善」という言葉は、浄土宗の鎮西派で使われるものです。
ですから、蓮如上人がここで仰っている「宿善」には、諸善の意味は含まれていないのです。

こうへい氏もそのことに気が付いて、反論できないのでしょう。もちろん、自分の非を認めることもしません。

親鸞会教学とは、単語、一つの文でしか理解していない、断章取義で貫かれています。前後の文章を読むだけで、意味が変わってきます。

宿善」については、真宗、浄土宗以外でも使われていまして、「宿世の善根」、というのが一般的な意味です。しかし真宗で使われている時は、ほとんどが「阿弥陀仏のお育て」という意味です。気を付けないと、親鸞会に騙されてしまいます。

『口伝鈔』も読んだことがない、と告白しているのですが、今や驚くことでもないですね。

mixiにおける三願転入の法論19

2010年5月3日

 

宿善という基本的な考え方については、紅楳英顕師の書かれた『派外からの異説について』に詳しい解説があります。ネット上でも公開されています。

「親鸞会教義の誤り」
紅楳英顕著『派外からの異説について』

宿善とは、獲信してから過去を振り返っていうことであって、それを未信の人が未来のこととして考えること自体おかしなことなのです。以下に抜粋しますので、よく読んで理解して下さい。

 そもそも宿善ということについては、私の論文にも述べているように、宗祖
聖人は、
  遇、行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。(『教行信証』総序)
  遇、信心を獲ば遠く宿縁を慶べ。(『浄土文類聚鈔』)

と仰せられてある。宗祖聖人が宿善とは宿因等といわず、宿縁といわれている
のは、『教行信証』も『文類聚鈔』も同じであるが、これは、その直前にある
「弘誓の強縁」(他力)の「縁」の語をうけているものと考えられる。だから、
「遠く宿縁を慶べ」とは、ひとえに他力のお育てによるところであったと慶ば
れているのである。蓮如上人も、
  遇獲信心遠慶宿縁と聖人のあそばし置れたるは、たまたまといふは過去に
  あふと云心なり。又、とおく宿縁をよろこぶといふは、今始めてうる信心
  にあらず、過去遠々の昔より以来の御哀にて今うる信心なり。(『拾遺御一代
  記聞書』)

と述べられている。信心を得たところで過去を振り返り、すべて他力のお育て
によるところであったと慶ばれたのが、宗祖聖人であり、蓮如上人である。
 この点高森親鸞会は、
  宿善というのは過去世の仏縁のことであるが、過去に仏縁浅きものは現在
  において真剣に宿善を求めねばならない。でなければ宿善開発の時節到来
  ということはあり得ない。されば宿善は待つに非ず、求めるものである。
                          (『白道もゆ』212頁)
  まず自身の信心決定をめざせ、そのためには宿善をつめ。イ、聴聞、ロ、
  破邪顕正。(『顕正新聞』第93号)
  真実を知らない人に真実をおしえ、求めねばならぬわけを説いているうち
  に、いや他人に説くことによって自分の聞法心も深まって来るのです。即
  ち宿善が厚くなるのです。法施は最上の布施行だからです。(『こんなことが知
  りたい』②87頁)
  真実の仏法のために浄財はすべて尊い宿善となります。この会費改正にあ
  たって進んで宿善を求めさせて頂きましょう。(『顕正新聞』第175号)

等と主張している。「過去に仏縁浅きものは現代において真剣に宿善を求めね
ばならない」とか「まず信心決定をめざせ、そのためには宿善をつめ」等とい
って、これから信心を得るために自力で宿善を積むことを勧めているわけであ
る。このような主張は、宗祖聖人や蓮如上人が信心を得たところから振り返っ
て宿善を語られたのと、基本的に相違しているといわねばならないであろう。
 私が論文に引用したように、大原性実師も「我々が今日弥陀法に遇い之を信
受奉行することを得し因縁となりしことを悉く宿善と称すべく……」と述べて
おられ、また『新・仏教辞典』(中村元監修)も「前世・過去世につくった善根功
徳をいう、また、人の一代に限って、今まで作った善根を指すこともある」と
出している。これらは、現在から過去を振り返っているのであって、これから
獲信のために修することを宿善といっているのではない。
 ところが、高森親鸞会は、大原師や『新・仏教辞典』の所説を、これから獲
信のために修する善のことであるかのように解釈して、「破邪顕正や財施が諸
善万行にはいるか、はいらないか」と質問してきている。私は、それらが諸善
万行にはいるかどうかは問題にしていないのであり、これから獲信のための宿
善として「破邪顕正や財施をせよ」というようなことは、宗祖聖人や蓮如上人
の上にはないと論じているのである。だから、私の意見に反論するのなら、宗
祖聖人や蓮如上人の上で、その文証を出してほしいと求めたわけである。

(中略)

 また『同書』(150頁)では、宿善があくまでも他力によるというならば、すべ
ての人の宿善が平等でなければならないといい、そして、
  本願寺は宿善の相違を認めないのであろうか、若しそうなら紅楳氏のよう
  な熱心なものもあれば、仏とも法とも思っていない人もいるという厳然た
  る事実をどう説明するのか。

と述べている。
 私は宿善の厚薄(相違)を認めないなどといっているのではない。しかし、私
がご法義を喜ぶ身にならせていただいたのは、自力の善を積んだからであると
は毛頭考えず、ひとえに仏のお導き、お育てによるものと味わっているのであ
る。
 この宿善の問題については、さらに『同書』(151頁以下)に『阿弥陀経』の
  已発願、今発願、当発願。
  若已生、若今生、若当生。

等の文をはじめ、覚如上人の
  十方衆生のなかに浄土経を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんと
  ならば『大経』の中に説くが如し、過去の宿善厚き者は今生にこの教えに
  値うてまさに信楽す、宿福なき者はこの教えに遇うといえども念持せざれ
  ばまた遇わざるが如し。(『口伝鈔』)

の文や、蓮如上人の
  陽気・陰気とてあり、されば陽気をうくる花は早く開くなり、陰気とて日
  陰の花は遅く咲くなり。かように宿善も遅速あり、されば已今当の往生あ
  り弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く開くる人もあり。(『御一代
  記聞書』)

の文等を引いて、往生に遅速があるのは宿善が平等でないからであり、宿善が
平等でないことは他力ではないからであるという旨を述べている。
 この点については、すでに私の論文でもふれておいたが、本派の宗学上にお
いても、宿善自力説・宿善他力説・当相自力体他力説等と、学的見解の別れる
ところである。私は、宿善は他力と味わっているが、宿善自力というも、当相
自力体他力というも、それは獲信の立場から振り返って宿善の物体を論ずるこ
とであって、高森氏のように、これから獲信のために自力の宿善を修せよとい
うような宿善論は、先哲の説にもなく、もちろん宗祖聖人をはじめ覚如上人、
蓮如上人の上にも示されていないのである。
 高森親鸞会が引用している覚如上人の『口伝鈔』には、その文の次下に、
  しかれば往生の信心のさだまることは、われらが智分にあらず、光明の縁
  にもよをしそだてられて名号信知の報土の因を得としるべしとなり。これ
  を他力といふなり。

とあるように、覚如上人も、他力のお育てにより信を得ると仰せられてある。
蓮如上人が他力を慶ばれたことについては、今さら論ずるまでもないことであ
る。したがって、覚如上人・蓮如上人の所説に往生の遅速の問題があるからと
いって、宿善が他力のお育てによるとよろこぶことを否定する理由にはならな
いのである。

mixiにおける三願転入の法論20

2010年5月5日

 

法然上人は宿善という言葉を使われていますし、親鸞聖人が解説までされた聖覚法印の『唯信鈔』にも宿善は使われています。そのことは、

「親鸞会教義の誤り」
宿善とは1

に書かれてありますので、そちらを参照して下さい。

ところが親鸞聖人は御著書のどこにも宿善という言葉を使われていません。敢て使われていないと考えられます。
教行信証』総序の

遇、行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。

浄土文類聚鈔』の

遇、信心を獲ば遠く宿縁を慶べ。

も、宿縁と仰っています。宿善ではありません。

その理由は、宿善の「善」が過去に自分の行ってきた行為、つまり自力を獲信と関係付けようと考える人が出てくることを懸念されてのことと思われます。

これまでに何度も述べてきましたが、親鸞聖人は自力を徹底的に排斥される言い方をされています。七高僧方がそこまで仰っていない自力念仏も、罪福信じる心さえも、自力だから捨てよ、と厳しく教えられた方が親鸞聖人です。

ましていわんや、自力修善は、法然上人がすでに厳しく誡められていますので、誤解を受けるような言葉を避けられたと考えるのがよいでしょう。よく知られているように親鸞聖人は、言葉遣いには大変に気を配られた方であったことからもそれが判るというものです。

ただし、宿善という言葉は他宗でも使われていましたので、覚如上人、蓮如上人は親鸞聖人の御心を踏まえられた上で、真宗における宿善を他宗とは別に定義されたものと思われます。
ですから、覚如上人、蓮如上人は、宿善という言葉を親鸞会で説明しているような意味で使われていません。

親鸞会教義の誤り」
宿善とは2
宿善とは3
宿善とは4

に、そのことが詳しく説明されています。
親鸞会で使う宿善の間違いの典型がmixiのこうへい氏の主張です。それをsutybi氏が指摘して、こうへい氏は全く反論できませんでした。それを再度紹介しておきます。

>こうへいさん

>お釈迦様の勧められている廃悪修善の教えに従っての諸善万行は、 
>信前の善の物体は、すべて、 
>信心獲得した暁からの一切過去における「宿善」に含まれる、 
>というのが、私の主張であります。

この根拠が、『一念多念証文』のあのお言葉ということでしょうか?

それならば、「浄土の方便の善」=「宿善

この意味が判りませんので、判るように説明をして頂けませんでしょうか。

>> 4.『一念多念証文』にある「浄土の方便の善」が「宿善」という根拠 
>> 

>これは、確かに申し上げました。 
>根拠は、 

>「いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れりと見えたり」(御文章) 

>の一言で充分でありましょう。

宿世が判る判らないの話ではないです。

蓮如上人が仰る宿善(『御文章』3帖目第12通)

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。 
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。
 

蓮如上人が仰っている宿善とは、『口伝鈔』の

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。 

を受けて仰っています。 
宿善の機とは、「
浄土教を信受する機」のことです。つまり、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられる人は、宿善の機であり、聖道門の教えを信じて、また聖道門から浄土門に入りながらも法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えを素直に信じられない人は、無宿善の機ということになります。 
蓮如上人の仰る「
宿善にかぎれり」とは、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられるかどうかです。

親鸞聖人がなぜ、宿善という言葉を使われなかったのか、覚如上人、蓮如上人がその親鸞聖人の御心を汲み取られてどのような意味で宿善を使われているのか、親鸞会会員は、よくよく考えてみるべきでしょう。