親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より

浄土真宗親鸞会が、退会者との法論に惨敗逃亡した記録 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」より抜粋

mixiにおける三願転入の法論36

2010年8月2日

 

mixiでこうへい氏が、何かの1つ覚えのように雑行について説明していました。親鸞会の最後の牙城であった「三願転入の教え」の根拠が粉砕されて、雑行に籠もっているのでしょう。しかし、その矛盾点を突かれて、また逃亡です。答えられないのならば、出てこなければいいものを…

さて、雑行について仰った親鸞聖人のお言葉を紹介しておきます。
『教行信証』化土巻

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。 
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。

(現代語訳)

浄土に往生してさとりを開くのを浄土門といい、易行道という。この浄土門の中に、横出と横超、方便と真実、漸教と頓教、そして序正と雑行、雑修と専修がある。 
 正とは、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五正行である。助とは、称名以外の読誦・観察・礼拝・讃嘆・供養の五種である。雑行とは、正・助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。 
また雑行について、専行あり専心あり、また雑行あり雑心あり。専行とはもつぱら一善を修す、ゆゑに専行といふ。専心とは回向をもつぱらにするがゆゑに専心といへり。雑行・雑心とは、諸善兼行するがゆゑに雑行といふ、定散心雑するがゆゑに雑心といふなり。

(現代語訳)

さて、雑行と雑修とは同じような言葉であるが、意味は違っている。雑という言葉には、すべての行をおさめてしまうのである。五種の正行に対しては、五種の雑行がある。この雑という言葉は、人間や神々に生れる行や菩薩の行などがさまざまにまじっているという意味で雑というのである。これはもとより阿弥陀仏の浄土に往生する因ではなく、浄土を願う心をおこし、これらの行を浄土往生のための善としなければならないから、浄土往生の行としては雑行というのである。 
 また、雑行について、専行があり専心がある、また雑行があり雑心がある。専行とは、一つの善をもっぱら修めるから専行という。専心とは、心をもっぱら浄土に向けるから専心という。雑行・雑心とは、さまざまな善をいくつも修めるから雑行といい、定善・散善を修める自力の心をまじえるから雑心というのである。

おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚(道綽)は「万行」(安楽集・下)といひ、導和尚(善導)は「雑行」(散善義)と称す。感禅師(懐感)は「諸行」(群疑論)といへり。信和尚(源信)は感師により、空聖人(源空)は導和尚によりたまふ。 
経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

(現代語訳)

浄土門で説かれるすべての自力の行について、道綽禅師は『安楽集』に「万行」といわれ、善導大師は『観経疏』に「雑行」(散善義)といわれている。懐感禅師は『群疑論』に「諸行」といっている。源信和尚は懐感師により、源空上人は善導大師によっておられる。釈尊の経説にもとづき、祖師方の解釈を見てみると、雑行の中には、雑行雑心、雑行専心、専行雑心があり、また正行の中には、専修専心、専修雑心、雑修雑心がある。これらはみな自力の行であって、辺地・疑城胎宮・懈慢界といわれる方便の浄土に生れる因なのである。だから、浄土に生れても仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。阿弥陀仏の光明は自力の行をまじえるものを照らしおさめることはないのである。第十九願を方便の願とするのは、まことに意味深いことである。釈尊が『観無量寿経』に定善・散善を説かれ、善導大師がこれは浄土を慕い願わせるための方便の教えであると解釈されたおこころが、いよいよ明らかに知られるのである。

『高僧和讃』

釈迦は要門ひらきつつ 定散諸機をこしらへて
 正雑二行方便し ひとへに専修をすすめしむ

(現代語訳)

お釈迦さまは (他力へ導く) 要となる門戸を開いて、 定善・散善の人々を誘い、 正行と雑行とを手立てとして、 ひとえにもっぱら念仏を修することを勧められた。

こころはひとつにあらねども 雑行・雑修これにたり
 浄土の行にあらぬをば ひとへに雑行となづけたり

(現代語訳)

意味するところは同じではないが、 雑行と雑修はよく似ている。 真実浄土への行ではないものを、 ひとえに雑行と名づけたのである。

雑行について、親鸞聖人は言葉を変えられて、詳しく説明をなされていますが、判りやすく言えば、浄土に往生しようと思って行う善は雑行です。
従いまして、三願転入の教えを信じて、18願に救われるために19願の善をしなければならない、というのは雑行です。ですから、「雑行を捨てよ」は、「19願の善は捨てよ」です。「三願転入の教え」は、ここでも破綻しているのです。

根拠に基づいて言えば、「雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。」で、雑行である19願、定散二善、自力の教えを捨てよです。

ここまで明快に仰っているのに、なぜ高森会長は破綻した論理で獲信のための善(雑行)を勧めるのか。

その理由は、F館に顕著です。

「さよなら親鸞会」
投稿:F館の会長専用施設

現在計画中の同朋の里F館の見積り依頼が知り合いの業者のところにきました。不況とはいえ、私の会社では、親鸞会の仕事を請けるつもりは一切ありませんので、知り合いの業者から教えてもらった情報を皆さんにお伝えしたいと思います。

ただ、余り詳しいことを述べると、その業者の方にご迷惑がかかるかも知れませんので、会長室関係のことについてのみ、簡単に説明致します。

F館は6階建てで、6階部分がすべて会長室になっています。5階までは会員さんの利用される部分です。

6階の広さは、全部で160帖程です。家族室がない分、正本堂よりも小さいです。正本堂と比較すると、全体の建物が小さい分、会長室も全体的に小振りですね。

部屋は和室が3室、寝室、書斎、リビング、キッチン、更衣室、洗濯家事室です。トイレが2箇所、浴室1箇所で構成されています。

内装のグレードは、もちろんかなり高いです。

設備についてはわかりませんが、会長の自宅や、各会館の会長室のことを聞くと、今回もICU以上の空調設備になるのは間違いないでしょう。

5階の一部に、会長用の応接室と秘書室があります。もちろん会員さんの部分とは、隔離されています。

1階は会長専用の玄関と、会長用の2台分の駐車場です。

大都市ならば、2億程のマンションといったところでしょうか。

全体の工事費の割合は、正本堂の倍程と予想されます。

一般人には理解できませんが、会員さんにとっては、拍子抜けの規模でしたかね。

F館6階を必死に隠して、5階建ての模型まで偽造して、財施を募るのはなぜか?

ある支部長は、「縁の浅い人に誤解を与えないようにするため」と答えていましたが、その支部長もF館6階のことは、全く知りませんでした。支部長も縁の浅い人なのです。
縁の深い人は、高森会長の家族と側近、建設関係者のみです。そんな縁の深い上層幹部は皆、未信です。

mixiにおける三願転入の法論35

2010年7月28日

 

こうへい氏には失望させられてばかりですが、今回も逃亡でしょう。こうへい氏が無安心、異安心であることは以下の発言でも明らかです。

”どんな小さな善もすべて獲信の因縁であった” 
という心は、廃るのではなく、反対で、 
一念で救われてからずっとあります。

こんなことを堂々と言っているのですから、情けないものです。親鸞会から発行されている書籍以外に読んだことが無いのでしょう。高森会長が善知識方の御著書を読んだことがないから、仕方がないことです。
mixiの中で、いろいろと指摘されていますが、別の根拠を挙げれば、

『口伝鈔』には

上人[親鸞]仰せにのたまはく、
「某はまつたく善もほしからず、また悪もおそれなし。
善のほしからざるゆゑは、弥陀の本願を信受するにまされる善なきがゆゑに。悪のおそれなきといふは、弥陀の本願をさまたぐる悪なきがゆゑに。
しかるに世の人みなおもへらく、善根を具足せずんば、たとひ念仏すといふとも往生すべからずと。またたとひ念仏すといふとも、悪業深重ならば往生すべからずと。
このおもひ、ともにはなはだしかるべからず。
もし悪業をこころにまかせてとどめ、善根をおもひのままにそなへて生死を出離し浄土に往生すべくは、あながちに本願を信知せずともなにの不足かあらん。
そのこといづれもこころにまかせざるによりて、悪業をばおそれながらすなはちおこし、善根をばあらませどもうることあたはざる凡夫なり。
かかるあさましき三毒具足の悪機として、われと出離にみちたえたる機を摂取したまはんための五劫思惟の本願なるがゆゑに、ただ仰ぎて仏智を信受するにしかず。
しかるに善機の念仏するをば決定往生とおもひ、悪人の念仏するをば往生不定と疑ふ。
本願の規模ここに失し、自身の悪機たることをしらざるになる。
おほよそ凡夫引接の無縁の慈悲をもつて修因感果したまへる別願所成の報仏報土へ五乗ひとしく入ることは、諸仏いまだおこさざる超世不思議の願なれば、たとひ読誦大乗・解第一義の善機たりといふとも、おのれが生得の善ばかりをもつてその土に往生することかなふべからず。
また悪業はもとよりもろもろの仏法にすてらるるところなれば、悪機また悪をつのりとしてその土へのぞむべきにあらず。

 しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。
さればこそ、悪もおそろしからずともいひ善もほしからずとはいへ」。

(石田瑞磨著『親鸞全集』の現代語訳)
聖人が仰せられたことには、
「わたしは決して、善を行ないたいとも思わないし、また悪を犯すことも恐れはしない。
善を行いたいとも思わないわけは、阿弥陀仏の本願を頂いて信ずる以上に勝れている善はないからであり、悪を恐れないというのは、阿弥陀仏の本願のはたらきをさまたげる悪は無いからである。
ところが世間のひとはつねに「善のたねをたくわえなければ、たとい念仏を称えるとしても、浄土に生れることはできない」と思い、また「たとい念仏を称えるとしても、罪悪が重ければ、浄土に生れることはできない」と思っている。
しかし、この考えは二つともはなはだしく間違っている。
もし、心のままに悪事をとどめ、思いどおりに善のたねをそなえて、この生死をくりかえす迷いから逃れ出て、浄土に生れることができるときは、強いて阿弥陀仏の本願を信じ、納得しなくても、なんの不足があろうか。
しかしこれがいずれも意のままにならないために、罪を恐れながらも、恐れる心のはしからこれを犯し、善のたねをたくわえたいと願っても、そうすることができない愚かなものなのである。
こうした、貪りと怒りと心の暗い愚かさとにまみれ、罪悪を犯す素質だけしかもたない、自分の力では迷いから逃れ出る途の絶えた素質のひとを救い取るために、五劫という永いあいだ、熟思に熟思を重ねた末、たてられた本願であるから、ただ仰いで、この阿弥陀仏の智恵を信ずるよりほかにはない。
ところが、善を行える素質をもったものが念仏を称えるのを見ると、かならず浄土に生れることができると思い、悪人が念仏するのを見ると、生れるとはかぎらないと疑うから、
ここに本願の面目は失われ、また自分が悪しか行えないことが素質のものであることを知らないで終わるのである。
おおよそ、愚かなものを救おうとする絶対平等の慈悲をもって、修行の結果、その目的のとおりに、成就することができた真実の仏の浄土に、どんな教えを奉ずるものもすべて等しく導きいれようという阿弥陀仏の誓いは、阿弥陀仏以外の諸仏のいまだかつておこしたことのない、どのような世界にもなかった、思惟を超えた誓いであるから、たといつねに大乗の経典を読み、勝れた教えを理解することができる素質のよいひとであっても、生れつきそなわっている善だけで、その浄土に生れることは許されない。
また悪い行為は、もともと仏の教えからは捨てられるものであるから、罪悪を犯す素質だけしかもたないものが悪をますます重ねることによって、その浄土に行くというものでもない。

こうしたわけだから、生れつき素質としてそなえている善・悪のいずれも、真実の浄土に生れるための好条件にも悪条件にもならないということは、もちろんである。
したがって、この善・悪の素質をそなえたままで、与えられたところの阿弥陀仏の智恵をますますはげしくたのむよりほかに、愚かなものにどうして浄土に生れるための好条件があるだろうか。あるはずがないのである。
だからこそ、「悪を犯すことも恐れはしない」ともいい、「善を行いたいとも思わない」ともいったのである。」

親鸞聖人のお言葉として覚如上人が紹介しておられます。
親鸞会の考えは

善根を具足せずんば、たとひ念仏すといふとも往生すべからずと。またたとひ念仏すといふとも、悪業深重ならば往生すべからずと。

これでしょう。善が間に合わないと教えてはいますが、善をせずしては救われないというその心は、これです。それを親鸞聖人は厳しく戒めておられます。

このおもひ、ともにはなはだしかるべからず。

親鸞会では

悪業をばおそれながらすなはちおこし、善根をばあらませどもうることあたはざる凡夫なり。

この部分だけ取り出して教えていますが、こんな凡夫であるから、五劫の思惟によって、善悪関係なく救う本願を建てられたのです。それなのに救われるのに、「善をせよ」というのは、阿弥陀仏の五劫の思惟を無駄にする教えです。

”どんな小さな善もすべて獲信の因縁であった”

しかしこれは、酷いです。真宗教義を根本から覆すものであって、読み流すことのできない邪説です。

『口伝鈔』には別に

たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。

と仰っています。これを読まれれば、より邪義が明らかになります。

たとえ諸善を修し、善根をたくわえるといっても、往生のもといとはならないのです。

しかし、こんな明確な間違いに気が付かないのでしょうか?

こうへい氏はかつて、

親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の仰ることこそ、 
浄土真宗か否かの物差しであり、

と言っていましたが、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の仰ることを物差しとすれば、親鸞会とこうへい氏は、浄土真宗ではないと断定されてしまいました。

今更のことではないですけど。

mixiにおける三願転入の法論34

2010年7月26日

 

mixiで、こうへい氏は煽られて三願転入の議論を再開したのかと思えば、悪口雑言の限りを尽くして、質問を無視して親鸞会流雑行の説明を始めました。
何1つ答えられないから、それしかできないことは判っていましたが、筋書き通りで笑えます。
それにしても、ここまで人格が曲がってしまうと修正は不可能ではないでしょうか。

なお、雑行の解説は、
元会員から見た浄土真宗親鸞会
にありますので、そちらを御覧下さい。

さて、前回は「念仏諸善比挍対論」について書きましたが、あの続きがあります。

『教行信証』行巻

また機について対論するに、信疑対、善悪対、正邪対、是非対、実虚対、真偽対、浄穢対、利鈍対、奢促対、豪賤対、明闇対あり。

この義かくのごとし。しかるに一乗海の機を案ずるに、金剛の信心は絶対不二の機なり、知るべし。

(現代語訳)
また機について、念仏の機と諸善の機とを比較し、対論すると、次のようになります。 
信疑対、念仏者は本願を信じているが、諸善の人は疑っている。 
善悪対、念仏者は名号の大善を領受しているから善人であり、諸善の人は雉毒の善しかないから悪人と貶称される。 
正邪対、念仏者は正定聚の機であり、諸善の人は邪定聚の機である。 
是非村、念仏者は仏意にかなうから是であり、諸善の人は仏意にかなわないから非である。 
実虚対、念仏者は仏の真実心を得ているから実といい、諸善の人は自力虚偽の人であるから虚という。 
真偽対、念仏者は真実、諸善の人は虚偽であるから、真といい、偽という。 
浄穢対、念仏者は浄心を得ているから浄といい、諸善の人は疑濁の人であるから穢という。 
利鈍対、念仏者は仏智を得ているから利根であり、諸善の人は仏智を得ていないから鈍根である。 
奢促対、諸善の人の成仏はおそいから奢といい、念仏者の成仏はすみやかであるから促という。 
豪賤対、念仏者は名号の功徳を得ているから豪富であり、諸善の人は大功徳を失っているから貧賤である。 
明闇対、念仏者は仏智を得て無明を破られているから明であり、諸善の人は無明の闇に閉ざされているから闇である。 
 このような十一対が成立します。以上のことから、本願一乗海である念仏を疑いなく受けいれている一乗海の機を考えてみると、その体が仏智であるような金剛の信心は比較を絶した絶対不二の機であることがわかります。

この諸善の人を親鸞会会員と置き換えてみれば、念仏者との違いがよく判ります。

奢促対、諸善の人の成仏はおそいから奢といい、念仏者の成仏はすみやかであるから促という。

これは、前回の

径迂対、念仏はさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。 
捷遅対、念仏は早くさとりに至る道であり、諸善は遅い道である。

と併せて、講師試験問題

「30年聞いても助からなかった、50年求めても獲られなかったものが此処にきて求まった」と放言する者がいるが、これらの者と次元の異なる親鸞聖人の流転の告白とその根拠を書け。

ここからも、親鸞会は真宗とは明らかに異なった教義であることが判ります。

高森会長、こうへい氏の言動を見てみると、講師試験最初の問題である十善が口先だけであることがよく判ります。
参考までに十善とは、

不殺生・不偸盗・不邪淫 
不妄語・不綺語・不悪口・不両舌 
不貪欲(不慳貪)・不瞋恚・不邪見

です。せめて十善に努めていれば、ここまで非難されることは無かったのでしょうが、十悪、五逆、謗法の限りを尽くしていては親鸞会が消滅しても、非難され続けるでしょう。

mixiにおける三願転入の法論33

2010年6月30日

 

観無量寿経』には、定散二善念仏とが説かれています。五逆・十悪の「極重の悪人」に対して説かれた行は、念仏だけです。「他の方便なし」です。誰が読んでも明らかなことです。
しかし、「極重の悪人」が念仏だけで往生できるということが、聖道門の学僧達には到底受け入れられない教えであったので、聖道門では念仏が方便で、定散二善が真実と理解したのです。それを善導大師が『観無量寿経疏』で論破され、法然上人が更に、

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く

諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く

とまで仰ったことに聖道門の学僧達が猛反発して、承元の法難が起きたという経緯があります。
それに対して親鸞聖人が反論されたのが『教行信証』です。
念仏が真実で、定散二善が方便であることを説明されているのが化土巻です。
何回も出していますが、要門釈の結論として仰った

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

親鸞聖人の教えのすべてです。もともと『往生要集』では

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

となっていまして、浄土門の通常の解釈です。そこに親鸞聖人は「定散の諸機」を加えられているのです。定散二善が真実だと思って行じている人も、よくよく自己を見つめれば「極重の悪人」であるから、「ただ弥陀を称せよ」が真実であるぞ、と仰っているのです。

要門釈の最初に、外道から聖道門、聖道門から要門、定散二善へと誘引されることを

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

と仰っています。外道から聖道門に入っても、聖道門の修行を断念する人が多いので、「ここをもつて」、聖道門の人を浄土門に導くために釈尊は定散二善を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられたと仰っているのです。19願は、浄土門にさえ入っていない聖道門の人をも導かれますから、「あまねく諸有海を化したまふ」なのです。「極重の悪人」を19願に導くという意味になる訳がないです。

親鸞会で言っているように、我々凡夫が「定散の諸機」と自惚れているから「極重の悪人」と知らさせるために19願を建てられ、諸善を勧められている、などという解釈は、浄土仏教の歴史を考えれば、成立し得ません。全く逆です。親鸞聖人が自惚れていると仰ったのは、念仏を方便と見下している聖道門の人であり、19願に拘る「定散の諸機」のことです。化土巻の要門釈だけを最初から最後まで読めば判ることです。
親鸞会は完璧な断章取義で、本から末までお聖教を読むことがないから判らないだけです。

以上のことを踏まえれば、親鸞会が、親鸞聖人が善を勧めた根拠と勘違いしている『一念多念証文』の

しかればこれを諸仏出世の直説と申すなり。おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。 
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

のお言葉も、要門釈と同じ内容であることが判るでしょう。「八万四千の法門」である聖道門の人を19願に誘い入れ、聖道門の人をも18願に入れる権仮方便の要門について、「浄土の方便の善」「浄土方便の要門」と仰っているのです。

それを親鸞聖人の体験として仰ったのが三願転入の文です。19願力によって、聖道門から浄土門に入り、18願に転入させて頂いたことを告白なされているのです。
そして三願転入の文の直後に仰ったのが、

まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。

です。聖道門は、釈尊在世中と正法の人のための教えであるから、像法・末法・法滅の人は聖道門に”迷うな”と仰っているのです。そして、聖道門の人が重視する19願は、聖道門の人を浄土門に導くためのものであることを明らかにされているのです。19願も20願も方便だから、真実18願を願いなさい、が化土巻の大意です。

略典と呼ばれる『浄土文類聚鈔』では、化土巻が省略されています。化土巻が誰のために、どんな目的で書かれたものであるか、これでお判り頂けるでしょう。

教行信証』全体どころか、化土巻の要門釈さえ読んだことのない親鸞会のトップから講師部員まで、矛盾点を突かれるとすぐに答えられなくなるのは、断章取義の典型だからです。

外部向けのmixiや某ブログでも、「十方衆生」「あまねく諸有海」「もろもろの衆生」とあるから、浄土門の人も19願から始めなければならないんだ、と虚しい主張をしてきましたが、今は外部に向けてデタラメ教義を発信することさえ断念して、内輪でのみこそこそ言い続けるだけです。

一方で、真宗史上では親鸞会は物笑いの種となって長く語り継がれていくことでしょう。
教団名から、「浄土真宗」「親鸞」を一刻も早く外した方が、高森会か高森教にとってもよいことと思いますよ。

mixiにおける三願転入の法論32

2010年6月28日

 

mixiでのこうへい氏も、某ブログも2週間も音沙汰なしですから、流石に逃亡したのでしょうか。尤も、某ブログの管理人は、また別人を装って、新たなブログを作って揚げ足取りに勤しむことが予想されます。懲りない人物ですからね。

さて前回の最後に、『観無量寿経』の隠顕釈について書きました。

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。 
顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。 
すなはちこれ顕の義なり。彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。

高森会長は隠顕について説明をしていたこともありますが、ピントのずれたものでしたので、教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』の補註から隠顕の説明を紹介しておきます。

 阿弥陀仏の第十九願に応じて説かれた釈尊の教えが『観経』であり、第二十願に応じて説かれた教えが『小経』である。『観経』に説かれた教えは、定善・散善といういろいろな善根によって阿弥陀仏の浄土に往生するというものであり、『小経』に説かれた教えは、一心不乱の自力称名念仏によって往生するというものである。第十九願・第二十願の教えが、第十八願の教えに引き入れようとするものであるのと同じく、『観経』、『小経』を説かれた釈尊の本意は、他力念仏の教えを説くことにある。したがって表面に説かれた教えは、前に述べたようなものであるが、その底を流れる釈尊の真意が、部分的に表面にあらわれている。『観経』に、「なんぢよくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」とあり、『小経』に「難信の法」とあるのがその例である。このように表面に説かれた自力の教えを「顕説」といい、底に流れる他力の教えを「隠彰」という。これによって『観経』、『小経』には、隠顕の両意があるといわれる。こうして浄土三部経は、顕説からいえば真実教と方便教の違いがあるが、隠彰の実義からいえば三経ともに第十八願の真実の法門が説かれていることがわかる。

韋提希の請いに応じて釈尊は定善を説かれ、定善のできない人のために釈尊は自ら散善を説かれました。『観無量寿経』の「顕説」は、定散二善です。定散による三心は自力であり、他力の信心ではないのです。その意は、「如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり」と、聖道門の人に浄土を願い慕わせるための善であると善導大師、親鸞聖人は仰っているのです。

一方『観無量寿経』の「隠彰」は、称名念仏です。それが『観無量寿経』最後の付属の文、

なんぢよくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり

これが釈尊の本意です。それを善導大師は『散善義』に

上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

と解釈なされています。
十方衆生に本願の名号を称えさせることが、釈尊の結論であり、本願の御心なのです。韋提希を通して逆悪の機をも漏らさない本願であることを説かれているのです。

それを『浄土和讃』観経讃に

大聖おのおのもろともに
 凡愚底下のつみひとを
 逆悪もらさぬ誓願に
 方便引入せしめけり

と、王舎城の悲劇の登場人物すべてが「逆悪もらさぬ誓願」であることを教えられた善巧方便だと親鸞聖人は仰ったのです。

親鸞聖人は上記のように隠顕で解説してくだされましたが、法然上人は簡潔に廃立で解説なされていました。『選択本願念仏集』には

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く

諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く

とあるのがそれです。
釈尊、善導大師、源信僧都、法然上人、親鸞聖人は、言葉や解説の仕方は違っても、

極重の悪人は、他の方便なし、ただ弥陀を称せよ

と、逆悪の機には19願、定散二善の方便は必要ないことを繰り返し教えていかれたのです。
それが理解できないのか、理解したくないのが、親鸞会でしょう。

mixiにおける三願転入の法論31

2010年6月25日

 

教行信証』信巻・別序のお言葉についての解説を続けます。

しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し。

このお言葉は、親鸞会でも時々使われてきましたので、親鸞会出身者ならば御存知でしょう。
自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す」は、聖道門の人が浄土門の教えを謗っていることと一般的には解釈されますが、浄土門の人でもこのような考えに陥っている人があります。
定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し」は、定善散善の自力に執心して、他力信心を獲ていないことです。
覚如上人は『報恩講式』の中で

念仏修行の人これ多しといへども、専修専念の輩はなはだ稀なり、あるいは自性唯心に沈みて徒に浄土の真証を貶め、あるいは定散の自心に迷ひてあたかも金剛の真信に闇し。

と仰り、蓮如上人は『御文章』2帖目第15通に

そもそも、日本において浄土宗の家々をたてて西山・鎮西・九品・長楽寺とて、そのほかあまたにわかれたり。これすなはち法然聖人のすすめたまふところの義は一途なりといへども、あるいは聖道門にてありし人々の、聖人(源空)へまゐりて浄土の法門を聴聞したまふに、うつくしくその理耳にとどまらざるによりて、わが本宗のこころをいまだすてやらずして、かへりてそれを浄土宗にひきいれんとせしによりて、その不同これあり。

と仰っています。
善知識方が浄土門内の邪義として仰ったのは、親鸞会の”三願転入の教え”そのものです。聖道門の論理で善を勧めて、「定散の自心に迷」わせて、「金剛の真信に昏し」となっていることに気が付かないのです。

前回述べたように、善巧方便と権仮方便の意味も全く判らないから、自分達が邪義と思えないのでしょう。
韋提希に対して、釈尊は定散二善を勧められているではないか、と親鸞会では幼稚な反論をしてきますが、そもそもそれが勘違いであり、高森会長に騙されているのです。

観無量寿経』を見てみましょう。

ときに韋提希、仏にまうしてまうさく、「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」と。 

(現代語訳)
そのとき韋提希が釈尊に申しあげた。「世尊、わたしは今、仏のお力によってその世界を見ることができます。でも、世尊が世を去られた後の世の人々は、さまざまな悪い行いをして善い行いをすることがなく、多く苦しみに責められることでしょう。そういう人たちは、いったいどうすれば阿弥陀仏の極楽世界を見ることができるでしょうか」

韋提希は、釈尊入滅後の人のために、極楽を見る方法について尋ねたので、その請いに釈尊が応じられただけです。
そのことを『玄義分』には、

問ひていはく、定散二善はたれの致請による。 
答へていはく、定善の一門は韋提の致請にして、散善の一門はこれ仏の自説なり。 


(現代語訳)
問うていう。定・散の二善は誰の請いに因るのか。
答えていう。定善の一門は韋提が請うたのであり、散善の一門は仏がみずからの思召しでとかれたのである。

とあります。また

たまたま韋提、請を致して、「われいま安楽に往生せんと楽欲す。ただ願はくは如来、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」 
といふによりて、しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。

(現代語訳)
たまたま韋提が釈迦仏に願って「わたしは今、安楽浄土に往生したいと望みます。ただ願わくは如来、わたしに定善の観法を教えてください」といったことにより、そこで、娑婆の教化の主である釈迦仏は、その韋提の請いをもととして広く浄土の要門を開かれ、安楽の能化の人である阿弥陀仏は、ならびのない弘願を顕された。

とも善導大師は教えられています。釈尊が定散二善を説かれ、阿弥陀仏は弘願18願を顕されたのです。

釈尊は韋提希に定散二善を説かれましたが、実践するように仰っていませんし、韋提希は定散二善をしていません。

この『観無量寿経』に説かれていることを解説されたのが『教行信証』化土巻・隠顕釈の

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。 
顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。 
すなはちこれ顕の義なり。彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。

(現代語訳) 
善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密の義がある。 
その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義である。 
その彰とは、阿弥陀仏の弘願を彰すものであり、すべてのものが等しく往生する他力の一心を説きあらわしている。提婆達多や阿闍世のおこした悪事を縁として、浄土の教えを説くという、釈尊がこの世にお出ましになった本意を彰し、韋提希がとくに阿弥陀仏の浄土を選んだ真意を因として、阿弥陀仏の大いなる慈悲の本願を説き明かされたのである。これが『観無量寿経』の底に流れる隠彰の義である。

観無量寿経』の隠顕釈についても知らないのでしょう。それで善知識方の嘆きである「定散の自心に迷ひて」を他人事としか考えられないから、親鸞会の会員は「金剛の真信に昏し」となっているのです。

mixiにおける三願転入の法論30

2010年6月23日

 

mixiでこうへい氏が、

未信の人が、18願だけで導かれるということですか? 
19願力も、20願力も不要と言われるのでしょうか? 
もしそうでしたら、19願力や20願力以外の、 
18願力に方便(信前)もある、ということになりますが、 
そのようなことを、親鸞聖人はどこにおっしゃっているのでしょう?

と自信一杯にコメントしたり、また某ブログでは

方便がなくても、
18願を素直に聞ける自分だと、
スゴイ自惚れのド天井にあるのだ。

未信の者が、18願だけで救われるなら、
18願力に、真仮があるとでもいうのか。

珍説だ。

などという珍説を、どうだといわんばかりに上から目線で書いていますが、恥ずかしいことを書いたという自覚のないことが驚きです。

極重の悪人は、他の方便なし(往生要集)

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ
       (高僧和讃

極重悪人唯称仏(正信偈

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。(正信偈大意)

上記のお言葉は、「極重の悪人」は18願1つでよい、19願・20願の権仮方便は不要であるということを明白に仰った根拠です。つまり”三願転入の教え”なるものを否定されているのです。

また

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。(教行信証

このお言葉は、要門釈の結論として仰ったものですから、「定散の諸機」に対しても18願1つということを教えられているのです。

上記の根拠を出したら、何か言い訳か屁理屈を言ってくるのかと期待していましたが、2人とも黙ってしまい、未だに反応がありません。

これまで方便について何度も解説してきましたし、方便の意味が判っていないと何度も忠告しているのに、進歩が全く無いです。

教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』の補註にあるものを今回は紹介しておきます。

 方便とは、仏が衆生を救済するときに用いられるたくみな方法をいう。その中に真実と権仮とがある。真実の方便とは、仏の本意にかなって用いられる教化の方法で、随自意の法門をいう。それは、大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度されるというので、善巧方便ともいう。阿弥陀仏を方便法身というときの方便がそれである。 
 権仮方便とは、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受けとれないから、その機に応じて、仮に暫く誘引のために用いられる程度の低い教えをいう。機が熟すれば真実の法門に入らしめて、権仮の法門は還って廃せられる。このように暫く用いるが、後には還って廃するような随他意の法門を権仮方便という。「方便化身土」といわれるときの方便がそれである。 
 親鸞聖人は四十八願の中で、往生の因を誓われた第十八願、第十九願、第二十願のうち第十八願のみが真実願であり、第十九願、第二十願は方便願であるとされた。第十八願は、他力回向の行信によって、真実報土の果を得しめられる真実願であり、第十九願は、自力諸行によって往生を願うものを、臨終に来迎して方便化土に往生せしめることを誓われたものであり、第二十願は、自力念仏によって往生を願うものを、方便化土に往生せしめることを誓われた方便願であるといわれるのである。そしてこの三願は、聖道門の機を浄土門に誘うために第十九願が、自力諸行の機を念仏の法門に導き、さらにその自力心を捨てしめて第十八願の他力念仏往生の法門に引き入れるために第二十願が誓われたとされている。

この程度の知識を最低限持っていなければ、親鸞聖人の御著書を読んでもチンプンカンプンでしょう。

前回の続きで、『教行信証』信巻・別序の

真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。

のお言葉は、まさに親鸞会の基本的な誤りを正されたものです。釈尊は善巧方便をもって真実信心を明らかにされたのであって、権仮方便をもってではありません。

高僧和讃』善導讃

釈迦・弥陀は慈悲の父母
 種々に善巧方便し
 われらが無上の信心を
 発起せしめたまひけり

も、同様のことを仰っています。
蓮如上人御一代記聞書』にも、

一 蓮如上人仰せられ候ふ。方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふと[云々]。

とあります。揚げ足とりをしたがる人のために少し解説しておきますと、「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」の「方便」は「廃立の義」ですから、捨てるべき権仮方便のことです。最後の文は文字通り、「善巧方便」のことです。「真実の信」は、「善巧方便によりて」うるのであって、「権仮方便によりて」ではありません。

以上のことをまとめて判りやすく言えば、親鸞聖人は18願1つで救われるのだと、繰り返し繰り返し教えられているのですが、絶対他力18願での往生をとても信じられない無宿善の機(未熟の機)がいますので、そんな機に対しては、権仮方便をもって18願での往生を願わせるところまで導かれるのです。親鸞聖人の教えを信じて、18願での往生を願う宿善の機に対しては、善巧方便をもって済度されるのです。

親鸞会では、自惚れ自惚れとうるさいのですが、18願だけでは不足だから19願・20願を加えなければならないと思うことを自惚れというのです。

この善巧方便を具体的に描かれたのが、『教行信証』信巻末にある阿闍世の物語です。一見すれば、略されてもよいように思われる部分までも、事細かに引文されています。実に『教行信証』全体の1割も費やされて、親鸞聖人は何を教えられたかったのでしょうか。それは衆生が善巧方便によって導かれることを示されると共に、五逆罪を犯した極悪人をも洩らさず、普く救いたもう本願であることを親鸞聖人が明らかにされるためであったのです。

その概要は
「親鸞会教義の誤り」
一切衆生は必堕無間なのか4

にありますので、読まれるとよいでしょう。

釈尊は阿闍世に対して、権仮方便をもって導かれたのではありません。高森会長は『教行信証』を読んだことがないから、内容を知らないのでしょうが、そんな無知な人物の妄想に付き合う必要はありません。

方便の内容さえ全く理解できない人を、善知識だとか、真実信心の人だとか、言っていることが恥ずかしくないのでしょうか。

mixiにおける三願転入の法論29

2010年5月23日

 

昨日要門釈の結論として親鸞聖人が仰った

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

について、源信僧都の『往生要集』との比較をして少し述べました。
山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』での解説も紹介しましたが、断章取義の大好きな人のために補足説明をしておきます。

源信僧都は、

極重の悪人は、他の方便なし。

と仰っています。

三願転入の議論のまとめ

のところでも書きましたが、19願の「十方衆生」には、悪人は含まれていません。ここで言われている「極重の悪人」とは、下々品の機のことです。ですから源信僧都のお言葉は、「極重の悪人」には19願の定善散善はできるものではないから、19願の方便は不要であることを教えられたのです。逆の言い方をすれば、善人には19願の方便が必要と仰っていることになるでしょう。

ところが親鸞聖人は源信僧都のお言葉を変えて仰っています。

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

19願の対機である「定散の諸機」も「極重悪人」と親鸞聖人は見られたのです。
要門釈の最初に

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。 偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。 
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

と、親鸞聖人は19願を聖道門の人を誘引するための願と仰っていますが、聖道門から19願に入った「定散の諸機」に対してさえも、19願の方便を勧められず、「極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり」なのです。
定散の諸機」も「極重悪人」であるから、18願他力念仏だけを勧められているのです。
更にこの後に「濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり」と結んでおられます。

山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』には、このところを、

「極重悪人無他方便」の文は念仏証拠門十文の中、第四文である。この文は、『要集』では『観経』下々品の意を述べたるものとなつてゐて定散の諸機に冠らすべきものではないのであるが、我が聖人がこの文を引用して『観経』定散の諸機は極重の悪人、他の方便なければ唯弥陀を称名せねばならぬと見給ふたので、茲にも聖人の醇乎たる宗教的態度を見ることが出来る。即ち聖人から見れば、下々品の念仏はすべて定散の諸機に蒙らしむべきもので、定散の機類は一応善機と云はれるけれども、徹底的にいへばすべて極重の悪人であるといふのである。我が聖人はいつも、ものの表面を見ないで、真を徹見し給ふのである。定散の機といふは表相である、仮相である。真なる相は、本願正所被の極重悪人なのである。

と解説されています。
親鸞会でも、すべての人は「極重悪人」であるということを教えていますので、方便のところ以外は納得できると思います。

ましてや、「定散の諸機」に入らない「極重悪人」に対して、親鸞聖人が19願を勧められることなどあり得ないことです。

ところが、19願の対機に関してのみ、親鸞会では下々品の機である「極重悪人」でも「定散の諸機」に突如昇格させるのです。下々品の機が「定散の諸機」と自惚れているからという屁理屈を捏ねるでしょうが、まるっきり逆です。親鸞聖人は自惚れている「定散の諸機」を「極重悪人」に降格されているのです。

「極重悪人」に19願の方便は必要ですか、不要ですか?

こうへい氏は、これでもまだ「解釈が異なる」としか言わないのでしょうね。今後は、どんな断章取義と屁理屈と言い訳が飛び出すことか。

mixiにおける三願転入の法論28

2010年5月22日

 

mixiでは、新しいトピックに移って、三願転入の議論が再開されるのかと期待しましたが、こうへい氏は”親鸞会コミュニィ”という親鸞会がルールという条件下でなければ、議論をしないと宣言してしまいました。
予想したこととはいいながらも、親鸞会の弱腰には哀愁が漂っています。

さて、親鸞聖人は『教行信証』化土巻・要門釈の一番最後に

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と仰っています。

現代語訳は

以上のようなことから、 源信和尚の解釈をうかがうと、 往生要集の念仏証拠門の中に、 第十八願について、 四十八願の中の特別な願であるとあらわされている。 また 観無量寿経に説かれる定善・散善を修めるものについて、 きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。 五濁の世のものは、 出家のものも在家のものも、 よく自分の能力を考えよということである。 よく知るがよい。

です。
浄土往生を願っている人に対して、「ただ弥陀を称せよ」なのです。「まず諸善を修せよ」ではありません。親鸞会に長年いましたが、この御文については一度も聞いたことがありませんでした。
これこそ、「三願転入の教え」を否定する結論です。

もとの『往生要集』念仏証拠を見れば、それがよりはっきりします。

三には、四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく、「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」と。 
四には、『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

源信僧都は、三が18願の説明、四が『観無量寿経』下下品についての説明です。

極重の悪人は、他の方便なし。

こうへい氏が、

未信の人が、18願だけで導かれるということですか? 
19願力も、20願力も不要と言われるのでしょうか? 
もしそうでしたら、19願力や20願力以外の、 
18願力に方便(信前)もある、ということになりますが、 
そのようなことを、親鸞聖人はどこにおっしゃっているのでしょう?

という自信満々の質問をしていますが、その回答です。
ただし、ここの源信僧都のお言葉に、親鸞聖人は「定散の諸機は」と付け加えられています。その御心について、山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』には、

我が聖人の御思召を伺ふに、上来説き明し来れるが如く、弥陀如来に方便の第十九願あり、釈迦如来は『観経』に定散両門を開いて、諸機を化益し給うたが、これ畢竟、方便誘引の教門である。横川の源信僧都も第十八願は別願中の別願であると宣うてある。又、極重悪人無他方便唯称弥陀得生極楽と勧め給うて在ます。されば方便要門の法に滞らず、弥陀如来の別願中の別願たる真実弘願の方に帰命して、真実報土に往生せねばならぬ。又、『観経』には表に定散の諸機について定散両善を勧めてあるけれども、実を剋すれば、すべてこれ極重の悪人である。されば弥陀の名号を称念して浄土往生を得るほかはないという意である。これで「化巻」初めの「是を以て釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本と誓願を発して普く諸有海を化し給ふ」にかつきりと当るのである。釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説し給ふも、実は極重悪人無他方便唯称弥陀の弘願法を説かんがためであり、阿弥陀如来の誓願を発し給ふも別願中の別願第十八願を以て衆生を救はんためであるといふことになるのである。

とあります。

山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』で、こうへい氏は要門釈について断章取義して喜んでいましたが、意味はお判りでしょうか?

さて、こうへい氏は、これでも信前の人は19願を必ず通らなければならない必要な方便と主張するのでしょうかね。

mixiにおける三願転入の法論27

2010年5月19日

 

mixiでの議論が、「親鸞会コミュニティ」から移動して行われるかもしれません。

親鸞会にとって都合の悪いコメントを削除し、議論に都合の悪い人物を排除するコミュニィでは、議論ができませんので、別のコミュニティに移動しての議論には賛成です。もし今後議論が再開されるのであれば、

  • 相手の質問には答える。
  • 自分の意見をハッキリ述べる。

この程度のルールは定めておくべきでしょう。親鸞会は、勝他のための議論しかしたことがありませんから、ルールを守らせることは無理だとは思いますが。

  • 自分の主張を明らかにするために相手に質問して答えてもらわなければならない

などというふざけた発言こそ削除すべきです。

さて、これまでのるぅでる氏、sutybi氏の主張を真氏がまとめて下さいましたので、少し補足修正して書いておきます。議論に参加されたい方は、参考にして下さい。

1.19願の対機について

『平等覚経』17願(前半が『大経』17願、後半が18願)

我作佛時。令我名聞八方上下無數佛國。 
諸佛各於弟子衆中。歎我功徳國土之善。 
【諸天人民蠕動之類】聞我名字。皆悉踊躍。 
來生我國。不爾者我不作佛

『平等覚経』18願(『大経』19願)

我作佛時。【諸佛國人民有作菩薩道者】。 
常念我淨潔心。壽終時我與不可計比丘衆。 
飛行迎之共在前立。即還生我國作阿惟越。 
不爾者我不作佛

『大阿弥陀経』4願(前半が『大経』17願、後半が18願)

使某作佛時。令我名字。皆聞八方 
上下無央數佛國。皆令諸佛。各於比丘僧大 
坐中。説我功徳國土之善。 
【諸天人民。蜎飛蠕動之類】聞我名字。 
莫不慈心歡喜踊躍者。皆令來生我國。 
得是願乃作佛。不得是願終不作佛

『大阿弥陀経』7願(『大経』19願)

使某作佛時。令【八方上下。無央數佛國。 
諸天人民。若善男子善女人。有作菩薩道。】 
奉行六波羅蜜經。若作沙門不毀經戒。 
斷愛欲齋戒清淨。一心念欲生我國。 
晝夜不斷絶。若其人壽欲終時。 
我即與諸菩薩阿羅漢。共飛行迎之。 
即來生我國。則作阿惟越致菩薩。智慧勇猛。 
得是願乃作佛。不得是願終不作佛

このように、18願の「十方衆生」と19願の「十方衆生」とは、本来意味が異なっていることが、『大経』異訳本から判ります。18願の「十方衆生」は、あらゆる生き物で、漏れているものはありませんが、19願の「十方衆生」は、菩薩道を作す者となっており、対機が限定されています。
このことを踏まえられてと思われますが、法然聖人は『選択本願念仏集』の中で、

釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、すなはちこれ弥陀の本願にあらざるゆゑなり。また念仏を付属する所以は、すなはちこれ弥陀の本願のゆゑなり。 いままた善導和尚、諸行を廃して念仏に帰する所以は、すなはち弥陀の本願たる上、またこれ釈尊の付属の行なり。ゆゑに知りぬ、諸行は機にあらず時を失す。念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。

と仰り、親鸞聖人は『尊号真像銘文』で

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

と解説しておられます。それで、『真宗大辞典』(永田文昌堂)の「十方衆生」の項には。

 四十八願中の第十八・第十九・第二十の三願には十方衆生とある。十方世界に棲息する無数の生類を総称して十方衆生という。即ち人類・天衆・禽獣・虫・魚等を総括してかく呼んだのである。第十九・第二十の両願には共に十方衆生とあって、広く一切衆生を救わんと譬える如くなれども、立願の精神を究れば、第十九願は修諸功徳に堪えて至心に発願し往生せんと願う者に限り第二十願は植諸徳本に堪えて至心に回向し願生する者に限る故に、漏らす所多々あれども、第十八願は十方衆生智愚善悪を問わず修行の堪不を論ぜず、皆ひとしく全く仏力にて救わんとする誓願なるが故に、一の衆生として漏るることがない。そこで第十八願の十方衆生の言は一衆生をも漏らすことなくその意が至極広いが、第十九・第二十の十方衆生の語は漏らす所多きが故に、その意は狭いとする。

とあります。
また梯實圓和上の『顕浄土方便化身土文類講讃』には

 親鸞聖人が第十八願・第十九願・第二十願の三願に真仮の別を見られたといったが、このように四十八願のなかに真仮を見るのは聖人の独自の発揮であ って、古今に例を見ないところである。 
(中略) 
 ところでこの三願に真仮を見られた祖意を先哲は種々に考察されているが、鮮妙師は、それらをまとめて、『宗要論題決擇編』巻一に、

 四十八願の至要たる「重誓偈」に徴するに、名号流布を誓て諸行を誓はず、 
 況んや六八願中多く聞名の得益を願ずと雖も諸行及び植諸徳本を誓はず。 
 又直ちに生因三願について伺ふに五由あるべし。一つには信行前後の異、 
 二つには信楽有無の異、三つには乃至有無の益、四つには得益定不の異、 
 五つには唯除有無の異これなり。

といっている。四十八願の中には聞名の益は説かれているが、諸行の益は説かれていないし、四十八願を要約した「重誓偈」にも諸行往生は説かれず、植諸得本も説かれず、ただ名号の流布のみを強調されているということは、第十八願の聞名往生を仏の随自意真実とみなされている証拠であるというのである。そして、さらに三願を対望して五由を挙げて詳細にその仏意を探っている。 
(中略) 
 五つに唯除有無の異とは、第十八願にのみ「唯除五逆誹謗正法」と逆謗抑止の文がおかれている。『尊号真像銘文』には、上の「若不生者」の釈につづいて、

 「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、 
 誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめ 
 して、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

といわれている。これによって第十八願の救済の対象となっている機は、五逆をつくり、正法を誹謗するような、極悪のものを含めた十方衆生であるから、善悪・賢愚を簡ばず一切の衆生を所被の機とされていることがわかる。これに対して第十九願・第二十願にこのような抑止の言葉がないのは、いずれも善人のみを所被の機とされていて、逆謗を抑止する必要がなかったからである。ここに、善人のみの救いを誓われる第十九願・第二十願と、特に悪人を回心させて救うことに焦点を合わせている第十八願との違いが明らかになるというのである。このようにして生因三願を対照すると、第十八願には他力廻向の行信による万人平等の救いが誓われており、第十九願・第二十願には自力の行信による往生が誓われていることがわかるのである。どちらに如来の平等の大悲の本意が顕われているかは明瞭である。

(中略)

 第十九願・第二十願は、自力の執着がふかく、罪(悪)福(善)の因果に則った廃悪修善の教えは信じても、善悪を超えた他力不思議の救いを受け容れることが出来ない未熟のものを育てるために施設された権仮方便の教えであるというのが親鸞聖人の領解であった。特に第十九願は、聖道門の機を浄土門に誘引するために諸行往生を誓われた方便の誓願であり、第二十願は、諸行往生の機を自力念仏の機に育て、さらに第十八願の他力念仏に入れしめるための方便願であるといわれている。

とあります。このように19願の対機は、菩薩道を行じられるいわゆる善人であることが明白です。

2.19願についての親鸞聖人の見解

上記の19願対機を踏まえられて、親鸞聖人は『教行信証化土巻・要門釈で

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。 偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。 
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

と仰っています。この解釈について梯實圓著『顕浄土方便化身土文類講讃』

 浄土門内の方便教を明かすについて、まず第十九願要門の意を明かし、次いで三経の陰顕を顕わし。最後に第二十願の意を釈されるが、その最初に方便教を説かねばならなかった仏意を明らかにされる。すなわち、釈尊の導きによって、真実に背いた外道を離れて聖道門に入ることができた者も、 なおその自力修行の厳しさゆえに、真実をさとり得た者は極めて少なく、せっかく一度は外道を離れて仏道に入りながら、内心は外道から離れることができず、再び邪道に退転してしまう偽の仏弟子も甚だ多かった。そのような状況を憐れんで、釈尊は聖道門から浄土門へと導くために権仮方便の法門を説かねばならなかったというのである。 
(中略) 
 そこで釈尊は浄土の教門を開いて行かれる。まず最初に開顕されたのが福徳蔵といわれる定善、散善によって往生を願う諸行往生の法門であった。その経典が『無量寿仏観経』であった。『観経』の散善顕行縁には、世、戒、行の三福散善を指して、「三世諸仏の浄業正因なり」といわれているように、諸仏の成仏道であった。また定善は、真身観に「無量寿仏を見たてまつれば、すなわち十方無量の諸仏を見たてまつる。無量の諸仏を見たてまつることを得るがゆゑに、諸仏は現前に授記す」といわれているように、諸仏から成仏の授記を得るための「般舟三昧」の行であった。したがって定散諸善の行体は、聖道門の諸行と同じ此土入聖の行であった。そのような聖道門の行を浄土に往生するための行として転換する心がすでに述べたように「至心発願欲生」の三心であり、『観経』でいえば「至誠心、深心、回向発願心」の三心だったのである。こうして、聖道門の修行をそのまま往生の行に転換させ、浄土に生まれさせることによって、聖道門に行き詰まっている行者を浄土門へと誘引し救っていかれるのである。

とあり、また山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』では

然るに五濁の世に汚された群萌、即ち煩悩悪業の含識は、今や諸仏の大悲に育てられて、漸く九十五種の邪道の網を脱れ出でて、仏教に教える所の半字教、満字教、又は権教、実教等の法門を信受し修道するようになっても、真に其の教へに入る者は甚だ得難く、如実の修道者は甚だ稀である。之に反して仏徒といふは名ばかりにて其の実は偽者が非常に多く、内心空虚の者が甚だ多い。 
釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下された。

として、聖道門の人を浄土門に誘引し、すでに浄土門に入っている人と共に18願真実門に導かれるとありまして、極めて素直な解釈です。

この要門釈は親鸞聖人独自の見解ではなく、法然聖人の教えを受け継がれています。

『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。

また親鸞聖人が間違いない人と尊敬されていた隆寛律師が言われていたと弟子が記した『広疑瑞決集』に

先師律師つねにのたまはく、隆寛こそ十九願の機よ。其故は、本と円宗の菩提心を発して、聖道の出離を期せしほどに、末法に生をうけたる身、涯分をしる故に、聖道の出離の叶ふまじきいはれを心得て、浄土門に入れるなり。

とあります。経典、法然聖人、隆寛律師のお言葉から親鸞聖人は19願を、聖道門の人を浄土門に誘引する願と見做されていたのです。

19願の役割を先程の要門釈の後に、

宗師(善導)の意によるに、「心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり。漸・頓すなはちおのおの所宜に称へり。縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る」(玄義分)といへり。
しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。 
「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。

とも仰っています。これを言い換えて仰ったのが、『一念多念証文』です。

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。 
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

なお、「浄土の方便の善」につきましては、『教行信証』化土巻・三経隠顕問答で

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。

と仰っていますので、「浄土の方便の善」=「欣慕浄土の善根です。
聖道門の人を「欣慕浄土の善根により浄土門に誘引するのが要門19願であり、すでに浄土門に入っている人と共に、「本願一乗海である18願に導き入れると仰っているのです。
ですからすでに浄土門に入っている人を「欣慕浄土の善根により要門19願に導くという意味ではありません。

浄土門の人に対して親鸞聖人は、三願を真仮廃立で教えておられます。『教行信証』『三経往生文類』等にも教えられていますが、最も顕著なのが『正像末和讃』の誡疑讃です。誡疑讃は23首ありますが、19願について明確に仰ったは以下の1首のみです。

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがえば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

あとは20願の誡めです。

19願を願うことを厳しく誡められているだけで、19願を勧められているところは1箇所もありません。

3.覚如上人、蓮如上人の教え

覚如上人『口伝鈔』

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

蓮如上人『御文章』3帖目第12通

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。 
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

覚如上人、蓮如上人が仰っている「宿善の機」とは、「浄土教を信受する機」のことです。つまり、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられる人は、宿善の機であり、聖道門の教えを信じて、また聖道門から浄土門に入りながらも法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えを素直に信じられない人は、「無宿善の機」ということになります。 
蓮如上人の仰る「宿善にかぎれり」とは、 18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられるかどうかです。

4.結論

親鸞聖人は19願を聖道門の人を誘引する願と仰り、浄土門の人には19願を勧められていませんので、すでに浄土門に入っている人が、19願を必ず通らなければ18願に入れないという「親鸞聖人の三願転入の教え」というものはありません。
浄土門に入って、親鸞聖人の教えを信じている人は、覚如上人のお言葉で言えば「浄土教を信受する機」であり、蓮如上人のお言葉で言えば「宿善の機」ということです。
ですから、「浄土教を信受する機」「宿善の機」は、18願1つを聞けばよいというのが善知識方の教えです。19願に心を掛けていることは、親鸞聖人が『唯信鈔文意』で

みづからが身をよしとおもふこころをすて

と仰っていることですから、すぐに捨て去るべき心です。

mixiにおける三願転入の法論26

2010年5月18日

 

mixiでの三願転入のやりとりを通して、聖道門、19願、20願、18願の関係を説明してきました。親鸞会の邪義に染まった人でも、権仮方便ということがお判りになれば、正しい三願転入の意味が理解でき、親鸞会が言っているような「三願転入の教え」というものが如何に馬鹿げたものであるか気が付かれるのではないかと思います。

「用管窺天記」願海真仮で、私がこれまでに述べてきたことが巧く図示されていますので、そのまま引用させて頂きます。

  1. 18願での往生を願う人
  2. 20願での往生を願う人
  3. 19願での往生を願う人
  4. 聖道門で此土入聖を願う人
  5. 外道を信じている人

すべての人を大きく分けるとこの5種類になります。ところが親鸞会では18願で往生を願う人とは、信心獲得した人と考えて、信心獲得していない人は20願、19願の人とし、それどころか聖道門、外道を信じているとまでいい出していますから、18願で救われるためには、まず19願に入って、20願を通ってからしか18願に入ることができないという訳の判らない理論を押しつけます。

そんな無茶苦茶なことを親鸞聖人は教えられたのではありません。親鸞聖人の教えを聞いていた人に対して、18願での往生を願いなさい、これ1つを説かれているのです。

しかし、親鸞聖人の教えである18願での往生をとても信じられない人が多いのです。そんな人に対して、権仮方便により、18願での往生を願うよう調機誘引されるのです。

釈尊の説かれたことの99%が善の勧めであるのは何のためか、と親鸞会ではよくいいますが、それは外道を信じている人を聖道門に引き入れるためです。

阿弥陀仏が19願を建てられたのは何のためか? 聖道門の人を浄土門に誘引するためです。

阿弥陀仏が20願を建てられたのは何のためか? 19願での往生を願っている人を18願に転入させるためです。

18願での往生を願っている人のために、聖道門、19願、20願があるのではありません。

会員の皆さんは、平生業生の教えを昿劫多生の教えと変えた高森会長の詭弁に、いつまで騙され続けるつもりですか?

mixiにおける三願転入の法論25

2010年5月17日

 

権仮方便ということを踏まえた上で、蓮如上人が宿善と仰っておられるところを見てみましょう。
これまで、『御文章』3帖目第12通について説明してきました。

いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり
いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり(補足)

『御文章』4帖目には、宿善という言葉が何回も出てきていますので、すべて紹介します。

第1通

 それ、真宗念仏行者のなかにおいて、法義についてそのこころえなき次第これおほし。しかるあひだ、大概そのおもむきをあらはしをはりぬ。所詮自今以後は、同心の行者はこのことばをもつて本とすべし。これについてふたつのこころあり。

一つには、自身の往生すべき安心をまづ治定すべし。二つには、ひとを勧化せんに宿善・無宿善のふたつを分別して勧化をいたすべし。この道理を心中に決定してたもつべし。しかればわが往生の一段においては、内心にふかく一念発起の信心をたくはへて、しかも他力仏恩の称名をたしなみ、そのうへにはなほ王法を先とし、仁義を本とすべし。また諸仏・菩薩等を疎略にせず、諸法・諸宗を軽賤せず、ただ世間通途の義に順じて、外相に当流法義のすがたを他宗・他門のひとにみせざるをもつて、当流聖人(親鸞)の掟をまもる真宗念仏の行者といひつべし。

ことに当時このごろは、あながちに偏執すべき耳をそばだて、謗難のくちびるをめぐらすをもつて本とする時分たるあひだ、かたくその用捨あるべきものなり。そもそも当流にたつるところの他力の三信といふは、第十八の願に「至心信楽欲生我国」といへり。これすなはち三信とはいへども、ただ弥陀をたのむところの行者帰命の一心なり。

そのゆゑはいかんといふに、宿善開発の行者一念弥陀に帰命せんとおもふこころの一念おこるきざみ、仏の心光かの一念帰命の行者を摂取したまふ。その時節をさして至心・信楽・欲生の三信ともいひ、またこのこころを願成就の文(大経・下)には「即得往生住不退転」と説けり。あるいはこの位を、すなはち真実信心の行人とも、宿因深厚の行者とも、平生業成の人ともいふべし。されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。

しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこころを聖人の御ことばには「遇獲信心遠慶宿縁」(文類聚鈔)と仰せられたり。これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。

このゆゑに、宿善の有無の根機をあひはかりて人をば勧化すべし。しかれば近代当流の仏法者の風情は、是非の分別なく当流の義を荒涼に讃嘆せしむるあひだ、真宗の正意、このいはれによりてあひすたれたりときこえたり。かくのごときらの次第を委細に存知して、当流の一義をば讃嘆すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

第3通

 それ、中古以来当時にいたるまでも、当流の勧化をいたすその人数のなかにおいて、さらに宿善の有無といふことをしらずして勧化をなすなり。所詮自今以後においては、このいはれを存知せしめて、たとひ聖教をもよみ、また暫時に法門をいはんときも、このこころを覚悟して一流の法義をば讃嘆し、あるいはまた仏法聴聞のためにとて人数おほくあつまりたらんときも、この人数のなかにおいて、もし無宿善の機やあるらんとおもひて、一流真実の法義を沙汰すべからざるところに、近代人々の勧化する体たらくをみおよぶに、この覚悟はなく、ただいづれの機なりともよく勧化せば、などか当流の安心にもとづかざらんやうにおもひはんべりき。これあやまりとしるべし。

第7通

 そもそも、今月報恩講のこと、例年の旧儀として七日の勤行をいたすところ、いまにその退転なし。しかるあひだ、この時節にあひあたりて、諸国門葉のたぐひ、報恩謝徳の懇志をはこび、称名念仏の本行を尽す。まことにこれ専修専念決定往生の徳なり。このゆゑに諸国参詣の輩において、一味の安心に住する人まれなるべしとみえたり。そのゆゑは真実に仏法にこころざしはなくして、ただ人まねばかり、あるいは仁義までの風情ならば、まことにもつてなげかしき次第なり。そのいはれいかんといふに、未安心の輩は不審の次第をも沙汰せざるときは、不信のいたりともおぼえはんべれ。さればはるばると万里の遠路をしのぎ、また莫大の苦労をいたして上洛せしむるところ、さらにもつてその所詮なし。かなしむべし、かなしむべし。ただし不宿善の機ならば無用といひつべきものか。

第8通

 これしかしながら今月聖人の御正忌の報恩たるべし。しからざらん輩においては、報恩謝徳のこころざしなきに似たるものか。これによりて、このごろ真宗の念仏者と号するなかに、まことに心底より当流の安心決定なきあひだ、あるいは名聞、あるいはひとなみに報謝をいたすよしの風情これあり。もつてのほかしかるべからざる次第なり。そのゆゑは、すでに万里の遠路をしのぎ莫大の辛労をいたして上洛の輩、いたづらに名聞ひとなみの心中に住すること口惜しき次第にあらずや。すこぶる不足の所存といひつべし。ただし無宿善の機にいたりてはちからおよばず。しかりといへども、無二の懺悔をいたし、一心の正念におもむかば、いかでか聖人の御本意に達せざらんものをや。

第15通

 しかれば愚老当年の夏ごろより違例せしめて、いまにおいて本復のすがたこれなし。つひには当年寒中にはかならず往生の本懐をとぐべき条一定とおもひはんべり。あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。またはこの在所に三年の居住をふるその甲斐ともおもふべし。あひかまへてあひかまへて、この一七箇日報恩講のうちにおいて、信心決定ありて、われひと一同に往生極楽の本意をとげたまふべきものなり。

よくよく読んでみられれば、宿善・無宿善の機とは、『御文章』3帖目第12通と同じで、18願1つを願うように説かれた親鸞聖人の教えを信じる人、信じられない人ということです。
宿善の機には、18願1つを説かれた親鸞聖人の教えをそのまま話をすればよいのですが、無宿善の機には、誹謗のもとになるので、親鸞聖人の教えを説いてはいけないと蓮如上人は仰っています。つまり無宿善の機には権仮方便が必要ということを蓮如上人は間接的に仰っていることになります。一方で宿善の機に対して、権仮方便を説く必要があることなど、『御文章』のどこを読んでも見当たりません。

以上を踏まえれば親鸞会では超有名な「無宿善の機にいたりてはちからおよばず」も「まことに宿善まかせ」も、親鸞聖人の教えを信じられるかどうかという意味です。このお言葉から親鸞聖人の教えを信じて聞いている人に対して宿善を厚くせよ、という意味にはなりえません。

『御文章』を素直に拝読すれば、簡単に理解できることが、高森フィルターを通してしまうと、到底理解できない文底秘沈の解釈になってしまいます。
読解力までも衰えさせる思考停止思想が、親鸞会です。

mixiにおける三願転入の法論24

2010年5月15日

 

前回の続きですが、方便についてこうへい氏が根拠を出せと求めています。自分は根拠を出さない(出せない)のに、他人に対しては高圧的な態度を平気でとれるところが、親鸞会講師部員らしいところです。

権仮方便について親鸞聖人が仰ったところは、

教行信証』化土巻

これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。

浄土和讃』大経讃

念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ

聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ

です。聖道門と要門について、権仮方便と仰っています。
さて、親鸞聖人の教えを信じている人(18願での救いを願っている人)に対して、権仮方便である聖道門が必要と仰っているのでしょうか、不要と仰っているのでしょうか。
聖道門と同列の要門については、どうでしょうか。

まさか、聖道門は不要だけども、要門は必要という矛盾したことは答えないでしょうね。
と言いたいところですが、親鸞会は、その矛盾した答えを平然と言ってくるでしょう。

親鸞聖人が、18願での救いを願っている人に対して、19願が必要であると仰った箇所があるとでも思っているのでしょうか。親鸞聖人は、19願は化土往生しかできないから、19願を願うことを厳しく誡めておられます。

根拠は?

と尋ねられれば、こうへい氏の真似をして、

教行信証』全体

と答えておいてもよいですが、もう少し絞って化土巻としておきましょう。

化土巻だけでなく他の御著書も皆、19願の誡めですが、読解力の乏しいこうへい氏のために、『正像末和讃』誡疑讃を挙げておきます。これまでに何回も誡疑讃を紹介してきましたが、M野氏じゃないyo氏のように理解できない方もまだあるようですので、本願寺の現代語訳も付けて、すべての御和讃を挙げておきます。

不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり

(訳)
仏の智慧を明らかにさとらない証拠として、 如来のいろいろな智慧を疑い、 
善悪の因果のみを信じ、 自力念仏の功徳を頼みにするので、 浄土の片隅の方便化土に止まるのです。

仏智の不思議をうたがひて 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて 仏恩報ずるこころなし

(訳)
仏の智慧の想いや言葉に尽くせない不思議の本願を疑って、 自力の念仏を好む者は、 
浄土の片隅や慢心の世界に止まって、 仏のご恩を報謝する心がおこらないのです。

罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる

(訳)
善悪の因果を信じる行者は、 仏の智慧の言葉に尽くせないほど不思議の本願を疑って
疑城胎宮に止まるので、 真実報土の仏・法・僧から離れてしまうのです。

仏智疑惑のつみにより 懈慢辺地にとまるなり
 疑惑のつみのふかきゆゑ 年歳劫数をふるととく

(訳)
仏の智慧や本願を疑う罪により、 懈慢界や浄土の辺地に止まるのです。 
疑う罪の深さにより、 この場所で長い長い間むなしく過ごすのだと、 釈尊はお説きなさったのです。

転輪皇の王子の 皇につみをうるゆゑに
 金鎖をもちてつなぎつつ 牢獄にいるがごとくなり

(訳)
自力の念仏の行者が化土に止まるのは、 まるで転輪聖王の王子が聖王に背そむいた罪により、 
金の鎖でつながれて牢獄に閉じこめられるようなものなのです。

自力称名のひとはみな 如来の本願信ぜねば
 うたがふつみのふかきゆゑ 七宝の獄にぞいましむる

(訳)
自分をたのんで称名する人は、 如来の本願を信じないので、 
その疑いの罪が深いから、 七宝で飾られた疑城胎宮に閉じこめられるのです。

信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も
 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし

(訳)
仏智を疑う自力の念仏の行者でも、 他力信心の人に劣らないように救おうとしてくださる
如来の大悲のご恩を思い知って、 他力の称名念仏に励みましょう。

自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける

(訳)
自分の力で善行を積み浄土往生を願う人はみんな、 言葉に尽くせない仏智の本願を疑うので、 
善悪因果の道理に従って自分が作った原因を身に受けて、 七宝で飾られた疑城胎宮に止められるのです。

仏智不思議をうたがひて 善本・徳本たのむひと
 辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり

(訳)
仏智不思議の本願を疑って、 念仏する功徳によって浄土に往生しようとする自力の人は、 
浄土の片隅や懈慢界に生まれるので、 阿弥陀如来の救いの大慈もいただけないのです。

本願疑惑の行者には 含花未出のひともあり
 或生辺地ときらひつつ 或堕宮胎とすてらるる

(訳)
本願を疑う行者には、 化土の蓮華の花に包まれて出られない人もいます。 
あるいは浄土の片隅に生まれる者と嫌われ、 あるいは疑城胎宮に堕ちる者として捨てられるのです。

如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなほもまた
 罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり

(訳)
如来のいろいろな智慧を疑って、 他力の念仏を信じることができないまま、 
やはり善悪因果の道理のみを信じ、 自力念仏がすぐれていると励んでいる者がいるのです。

仏智を疑惑するゆゑに 胎生のものは智慧もなし
 胎宮にかならずうまるるを 牢獄にいるとたとへたり

(訳)
仏の智慧の本願を疑うので、 母の体内のような方便化土に生まれる者は、 智慧をいただくこともありません。 疑城胎宮に生まれることを牢獄に閉じこめられていると譬えたのです。

七宝の宮殿にうまれては 五百歳のとしをへて
 三宝を見聞せざるゆゑ 有情利益はさらになし

(訳)
七宝で飾られた疑城胎宮に生まれると、 五百年もの間閉じこめられて
真実報土の三宝を見聞きすることがないので、 この世に還相して人びとを救うことは全くできないのです。

辺地七宝の宮殿に 五百歳までいでずして
 みづから過咎をなさしめて もろもろの厄をうくるなり

(訳)
浄土の片隅の七宝で飾られた疑城胎宮にいて、 五百年もの間そこから出られないで、 
自分がおこした疑いなどのとがや罪によっていろいろな厄を受け、 不安で危険な状態にいるのです。

罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに 方便化土にとまるなり

(訳)
善悪因果の道理を深く信じて、 自力念仏に励んでいる人は、 
本願を疑う善人なので、 真実の浄土ではなく、 方便化土に止まるのです。

弥陀の本願信ぜねば 疑惑を帯してうまれつつ
 はなはすなはちひらけねば 胎に処するにたとへたり

(訳)
阿弥陀如来の本願を信じないので、 心に疑いを持ち続けたまま往生はしますが、 
往生した所の蓮華の花のつぼみはすぐには開かないので、 母の体内にまだいるのと同じだと譬えたのです。

ときに慈氏菩薩の 世尊にまうしたまひけり
 何因何縁いかなれば 胎生・化生となづけたる

(訳)
ある時弥勒菩薩は釈尊に 
「どのような因縁によって、 往生を胎生・化生と区別して名付けられたのですか」 と申し上げました。

如来慈氏にのたまはく 疑惑の心をもちながら
 善本修するをたのみにて 胎生辺地にとどまれり

(訳)
釈尊は弥勒菩薩に、 「本願を疑う心を持ったまま
自力の念仏を励んで、 その功徳で往生しようとするために胎生するのであり、 方便化土の辺地に止まっているのだ」 とお答えになった。

仏智疑惑のつみゆゑに 五百歳まで牢獄に
 かたくいましめおはします これを胎生とときたまふ

(訳)
釈尊は、 「仏の智慧の本願を疑う罪により、 五百年もの間、 牢獄に
厳しく捕らえられている。 これを胎生というのだ」 とお説きなさったのです。

仏智不思議をうたがひて 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば 胎生のものとときたまふ

(訳)
仏智不思議の本願を疑って、 念仏する功徳によって浄土に往生しようとする自力の人は、
浄土の片隅や懈慢界に生まれるので、 阿弥陀如来の救いの大慈もいただけないのです。

自力の心をむねとして 不思議の仏智をたのまねば
 胎宮にうまれて五百歳 三宝の慈悲にはなれたり

(訳)
自力往生の心を最高のよりどころとして、 想いや言葉に尽くせない仏の智慧の本願のはたらきを信じないので、 
方便化土の疑城胎宮に生まれて五百年もの間、 阿弥陀如来の三宝の慈悲から離れ、 閉ざされているのです。

仏智の不思議を疑惑して 罪福信じ善本を
 修して浄土をねがふをば 胎生といふとときたまふ

(訳)
釈尊は、 「仏智不思議の本願を疑って、 善悪因果の道理を信じて、 自力の称名によって
浄土に生まれたいと願う者を、 胎生の者というのだ」 とお説きなさったのです。

仏智うたがふつみふかし この心おもひしるならば
 くゆるこころをむねとして 仏智の不思議をたのむべし

(訳)
仏の智慧の本願を疑う罪はたいへん深い。 疑う心の罪の深さを思い知るならば、 
それを悔いる心でもって、 仏の智慧の想いや言葉に尽くせない不思議の本願におまかせしましょう。

すべて通して読まれると親鸞聖人が何を教えられているかがよく判る筈です。
すべて権仮方便である19願と20願を厳しく誡められたお言葉です。

親鸞聖人の教えを信じている人に対しては、20願でさえ、厳しく誡められているのです。況んや19願をやです。

mixiでの議論は、このまま終了となる可能性が高いので、これもこうへい氏と、そのバックにいる人に誡疑讃について教えてあげて下さい。

mixiにおける三願転入の法論23

2010年5月14日

 

mixiでの議論は、中断しておりますが、中断する前にこうへい氏がいくつか質問していました。ほとんどは、これまでに何人かの方が述べられたことを理解できない頓珍漢な質問です。
方便についての質問は、これまで詳しい議論がなされていませんでしたので、念の為解説しておきます。

> 浄土門に入って、親鸞聖人の教えを信じている人は、 
> 覚如上人のお言葉で言えば「浄土教を信受する機」であり、 
> 蓮如上人のお言葉で言えば「宿善の機」ということです。 
> ですから、「浄土教を信受する機」「宿善の機」は、 
> 【18願1つを聞けばよいというのが善知識方の教えです】。

未信の人が、18願だけで導かれるということですか? 
19願力も、20願力も不要と言われるのでしょうか? 
もしそうでしたら、19願力や20願力以外の、 
18願力に方便(信前)もある、ということになりますが、 
そのようなことを、親鸞聖人はどこにおっしゃっているのでしょう?

方便ということが全く理解されていないことから起きてきた疑問です。
方便については、少しでも調べる気になれば、解説は一杯ありますので、それを読めば理解できるのですが、高森会長の珍説を頭から信じ込んでいますので、こんな御粗末な質問が出てくるのです。

21世紀の浄土真宗を考える会」では、何回も解説がありますが、善巧方便と権仮方便のところで引用されていたものを紹介しておきます。

木村世雄氏著「『歎異抄』における真実と方便の関係」

・・・つまり方便には《善巧方便》と《権仮方便》の二種類があるというのである。
《善巧方便》
 仏・菩薩が衆生をさとりに導くために、衆生の素質や能力に応じて巧みに化する大悲の具現としての手段、方法、巧妙の智用。
《権仮方便》
 真実の法に入らしめるために仮に設けた法門のこと。方便願、方便の行信、方便化身土というようなものがこれに相当する。この方便は、一度真実に入ったならば不要となり廃されるため暫用還廃(暫く用いて還りて廃す)の法といわれる。

と説明される。

 前者の意味での方便とは娑婆世界の衆生を証果へといざなう方法という意味であり<方便智>あるいは<権智>とも称する。要するに如来の智慧の働きを土台にして巧みな教化方法のことである。善巧方便はまた真実を知ったからといって捨て去ってよいというものではない。
 対する権仮方便は親鸞の「化身土文類」の土台でもある。権仮方便は真実を知りえないものを真実に入らしめるために一時的に用いる方便であり、真実に触れたならばそれを廃し去る方便を意味する。

 伝統的な宗学の解釈では「随自意の法門」と「随他意の法門」とに分けて善巧方便と権仮方便の立場を区別化される。

 「随自意の法門」とは善巧方便のことである。仏の自らの意にかなって用いられる教化の方法であるからそのように称される。それは大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度されるという意味で、阿弥陀仏を「方便法身」というときの方便がそれである。『唯信鈔文意』において二種法身が語られる方便はこの善巧方便に該当する。
 法性法身自身が法性法身とはいかなる法身であるのかを巧みに表現するために、方便法身として「形をあらはして」説明されるのが善巧方便である。法性法身と方便法身は決して別物ではなく、ただ法性と対した時に便宜的に方便と称されているだけで、方便法身は法性法身の世界に達するまでの階梯といった意味ではない。法性法身は全性修起して方便法身を全うじるものである。

 対して「随他意の法門」とは権仮方便のことであり、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受け取れないから、その機(すなわち阿弥陀仏自身から見た「他」のことで、すなわち衆生のこと)に応じて仮にしばらく誘引のために用いられる教えをいう。機が真実の法門に入ったならば、権化の法門は不要となり還りて廃せられる。このように暫く用いるが後には還って廃するような方便を権仮方便もしくは「随他意の法門」という。それは具体的には第十九願(要門)・第二十願(真門)の世界のことを指している。
浄土和讃』「大経讃」には、

 聖道権仮の方便に
 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる
 悲願の一乗帰命せよ

とある。
また『愚禿鈔』巻下には

 上よりこのかた一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく、六種の正に対して六種の雑あるべし。雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、ゆゑに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。おほよそ聖道・浄土、正雑、定散、みなこれ回心の行なりと、知るべし。

とし、ここでは定散二善の聖道行を「回心の行」と名づけることによって、遂には第十八願の信心の世界へと導かれていく雑行であるとされている。

権仮方便とは、18願を信じられず、18願の救いを願わない未熟な機のためになされるものです。18願の救いを願っている人に対しては、19願、20願の権仮方便は廃すべきものです。こうへい氏は、善巧方便と権仮方便の区別が全くないのです。
もちろん高森会長が判っていないことが元です。

真宗学のイロハも知らないようでは、議論が成立する筈も無く、都合の悪い人物を排除するのが最善の方法と判断したのでしょう。

恥ずかしい質問をしているこうへい氏に、善巧方便と権仮方便の意味を誰か教えて挙げてくださいよ。

mixiにおける三願転入の法論22

2010年5月8日

 

『口伝鈔』十四章には、親鸞会では有名な、「体失不体失往生の諍論」について書かれています。全文を見てみましょう。

一 体失・不体失の往生の事。

 上人[親鸞]のたまはく、先師聖人[源空]の御とき、はかりなき法文諍論のことありき。善信(親鸞)は、「念仏往生の機は体失せずして往生をとぐ」といふ。小坂の善恵房[証空]は、「体失してこそ往生はとぐれ」と[云々]。この相論なり。

 ここに同朋のなかに勝劣を分別せんがために、あまた大師聖人[源空]の御前に参じて申されていはく、「善信御房と善恵御房と法文諍論のことはんべり」とて、かみくだんのおもむきを一々にのべまうさるるところに、大師聖人[源空]の仰せにのたまはく、善信房の体失せずして往生すとたてらるる条は、やがて「さぞ」と御証判あり。善恵房の体失してこそ往生はとぐれとたてらるるも、またやがて「さぞ」と仰せあり。

 これによりて両方の是非わきまへがたきあひだ、そのむねを衆中よりかさねてたづねまうすところに、仰せにのたまはく、「善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。〈如来教法元無二〉(法事讃・下)なれども、〈正為衆生機不同〉(同・下)なれば、わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。念仏往生は仏の本願なり、諸行往生は本願にあらず。念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。本願の文あきらかなり、かれをみるべし。つぎに諸行往生の機は臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず。このゆゑにこの穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりてそのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。勝劣の一段におきては、念仏往生は本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる。諸行往生は、非本願なるによりて定散の機にかぎる。本願念仏の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と、殿最懸隔にあらずや。いづれも文釈ことばにさきだちて歴然なり」。

ここで法然上人が仰っているお言葉として、「宿善の厚薄」と書かれています。この意味は、前の部分を読まれればわかります。同じ教えを聞きながら、「わが根機にまかせて領解」することで、念仏往生と諸行往生と考え方が違ってくるということです。つまり、

宿善の厚い人」=「念仏往生の機
宿善の薄い人」=「諸行往生の機

ということです。これは、以前から紹介している『口伝鈔』の二章にある

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

と同じ意味で、覚如上人は「宿善」という言葉を使われています。

宿善あつきもの」=「浄土教を信受する機
宿福なきもの」=「浄土教を信受せざる機

です。

以上をまとめますと、

宿善の厚い人」とは、18願の平生業成、不体失往生、念仏往生を信じて願う人のことであり、言い換えれば親鸞聖人の教えを信じる人のこと。
宿善の薄い人」とは、19願の臨終来迎、体失往生、諸行往生を願う人のこと。
宿善の無い人」とは、浄土仏教を信じられない、聖道仏教や外道を信じている人のこと。

といえると思います。「宿善の薄い人」と「宿善の無い人」とは、一括りにしても良いかも知れません。
親鸞聖人の教えを信じている人は「宿善の厚い人」、親鸞聖人の教えを信じられない人は「宿善の薄い人」もしくは「宿善の無い人」です。

親鸞聖人は18願1つを教えられました。それにも関わらず、善知識方の説かれたことのない「三願転入の教え」という邪説を信じて、浄土門の人も19願から出発しなければならないと考えている人は、「宿善の薄い人」でしょう。
善をすれば、宿善が厚くなるなどという教えを信じている人も、親鸞聖人の教えと根本的に相違していますので、「宿善の薄い人」です。

お聖教を信じるか、高森会長の邪説を信じるかで、「宿善の厚薄」は決まります。根機にまかせて領解した結果、高森学徒に留まる人は、残念ながら「宿善の薄い人」と言わざるを得ません。

mixiにおける三願転入の法論21

2010年5月6日

 

覚如上人が宿善という言葉を使われている根拠として、昨日mixiの書き込みから

『口伝鈔』第二章の

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

を紹介しました。ここでは
宿善あつきもの」=「浄土教を信受する機
宿福なきもの」=「浄土教を信受せざる機
という意味です。

また第四章にも宿善という言葉を使われていますが、これは上記の意味とは異なっています。 長いですが、全文紹介します。

一 善悪二業の事。

 上人[親鸞]仰せにのたまはく、「某はまつたく善もほしからず、また悪もおそれなし。善のほしからざるゆゑは、弥陀の本願を信受するにまされる善なきがゆゑに。悪のおそれなきといふは、弥陀の本願をさまたぐる悪なきがゆゑに。しかるに世の人みなおもへらく、善根を具足せずんば、たとひ念仏すといふとも往生すべからずと。またたとひ念仏すといふとも、悪業深重ならば往生すべからずと。このおもひ、ともにはなはだしかるべからず。もし悪業をこころにまかせてとどめ、善根をおもひのままにそなへて生死を出離し浄土に往生すべくは、あながちに本願を信知せずともなにの不足かあらん。そのこといづれもこころにまかせざるによりて、悪業をばおそれながらすなはちおこし、善根をばあらませどもうることあたはざる凡夫なり。かかるあさましき三毒具足の悪機として、われと出離にみちたえたる機を摂取したまはんための五劫思惟の本願なるがゆゑに、ただ仰ぎて仏智を信受するにしかず。しかるに善機の念仏するをば決定往生とおもひ、悪人の念仏するをば往生不定と疑ふ。本願の規模ここに失し、自身の悪機たることをしらざるになる。おほよそ凡夫引接の無縁の慈悲をもつて修因感果したまへる別願所成の報仏報土へ五乗ひとしく入ることは、諸仏いまだおこさざる超世不思議の願なれば、たとひ読誦大乗・解第一義の善機たりといふとも、おのれが生得の善ばかりをもつてその土に往生することかなふべからず。また悪業はもとよりもろもろの仏法にすてらるるところなれば、悪機また悪をつのりとしてその土へのぞむべきにあらず。
 しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。さればこそ、悪もおそろしからずともいひ善もほしからずとはいへ」。

 ここをもつて光明寺の大師(善導)、「言弘願者 如大経説 一切善悪凡夫得生者 莫不皆乗阿弥陀仏 大願業力為増上縁也」(玄義分)とのたまへり。文のこころは、「弘願といふは、『大経』の説のごとし。一切善悪凡夫の生るることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗りて増上縁とせざるはなし」となり。されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

 これによりて、あるときの仰せにのたまはく、「なんだち、念仏するよりなほ往生にたやすきみちあり、これを授くべし」と。「人を千人殺害したらばやすく往生すべし、おのおのこのをしへにしたがへ、いかん」と。ときにある一人、申していはく、「某においては千人まではおもひよらず、一人たりといふとも殺害しつべき心ちせず」と[云々]。上人かさねてのたまはく、「なんぢ、わがをしへを日ごろそむかざるうへは、いまをしふるところにおいてさだめて疑をなさざるか。しかるに一人なりとも殺害しつべき心ちせずといふは、過去にそのたねなきによりてなり。もし過去にそのたねあらば、たとひ殺生罪を犯すべからず、犯さばすなはち往生をとぐべからずといましむといふとも、たねにもよほされてかならず殺罪をつくるべきなり。善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり。しかればまつたく、往生においては善もたすけとならず、悪もさはりとならずといふこと、これをもつて准知すべし」。

前段は、親鸞聖人のお言葉を書かれたものです。

機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。

とありますように、報土往生には、過去に行ってきた善悪は全く関係がない、ということです。

中段は、善導大師のお言葉から、

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

覚如上人御自身の考えを述べておられます。覚如上人がここで仰っていることは、
宿善あつきひと
=過去世において善に励み悪を慎んできて、「今生に善をこのみ悪をおそる」人
宿悪おもきもの
=過去世において善をせず悪行を重ねてきて、「今生に悪をこのみ善にうとし」の人
ということです。親鸞会でいうところの宿善の厚薄に近い意味ですが、その結論が親鸞会とは全く違います。

ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

過去に行ってきた善悪、言い換えれば「宿善あつきひと」か「宿悪おもきもの」かは、往生と関係付けてはいけないということです。

更に後段に親鸞聖人のお言葉を再度紹介されて、

善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり。しかればまつたく、往生においては善もたすけとならず、悪もさはりとならずといふこと、これをもつて准知すべし

と、過去世、現在世の善悪は、往生の助けにも障りにもならないと仰っています。

つまり、親鸞会で教えているような宿善の厚薄と往生とが関係あるとする考えを、前段・中段・後段で、繰り返し破邪しておられるのです。

こうへい氏は、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人が教えの物差しであると言っていましたが、覚如上人の『口伝鈔』を物差しとすれば、こうへい氏の主張は、覚如上人から邪義扱いされたものになります。

何度も言いますが、少しはお聖教を読んでから親鸞聖人の教えを語らないと、子弟共に大恥を晒すだけですよ。

mixiにおける三願転入の法論20

2010年5月5日

 

法然上人は宿善という言葉を使われていますし、親鸞聖人が解説までされた聖覚法印の『唯信鈔』にも宿善は使われています。そのことは、

「親鸞会教義の誤り」
宿善とは1

に書かれてありますので、そちらを参照して下さい。

ところが親鸞聖人は御著書のどこにも宿善という言葉を使われていません。敢て使われていないと考えられます。
教行信証』総序の

遇、行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。

浄土文類聚鈔』の

遇、信心を獲ば遠く宿縁を慶べ。

も、宿縁と仰っています。宿善ではありません。

その理由は、宿善の「善」が過去に自分の行ってきた行為、つまり自力を獲信と関係付けようと考える人が出てくることを懸念されてのことと思われます。

これまでに何度も述べてきましたが、親鸞聖人は自力を徹底的に排斥される言い方をされています。七高僧方がそこまで仰っていない自力念仏も、罪福信じる心さえも、自力だから捨てよ、と厳しく教えられた方が親鸞聖人です。

ましていわんや、自力修善は、法然上人がすでに厳しく誡められていますので、誤解を受けるような言葉を避けられたと考えるのがよいでしょう。よく知られているように親鸞聖人は、言葉遣いには大変に気を配られた方であったことからもそれが判るというものです。

ただし、宿善という言葉は他宗でも使われていましたので、覚如上人、蓮如上人は親鸞聖人の御心を踏まえられた上で、真宗における宿善を他宗とは別に定義されたものと思われます。
ですから、覚如上人、蓮如上人は、宿善という言葉を親鸞会で説明しているような意味で使われていません。

親鸞会教義の誤り」
宿善とは2
宿善とは3
宿善とは4

に、そのことが詳しく説明されています。
親鸞会で使う宿善の間違いの典型がmixiのこうへい氏の主張です。それをsutybi氏が指摘して、こうへい氏は全く反論できませんでした。それを再度紹介しておきます。

>こうへいさん

>お釈迦様の勧められている廃悪修善の教えに従っての諸善万行は、 
>信前の善の物体は、すべて、 
>信心獲得した暁からの一切過去における「宿善」に含まれる、 
>というのが、私の主張であります。

この根拠が、『一念多念証文』のあのお言葉ということでしょうか?

それならば、「浄土の方便の善」=「宿善

この意味が判りませんので、判るように説明をして頂けませんでしょうか。

>> 4.『一念多念証文』にある「浄土の方便の善」が「宿善」という根拠 
>> 

>これは、確かに申し上げました。 
>根拠は、 

>「いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れりと見えたり」(御文章) 

>の一言で充分でありましょう。

宿世が判る判らないの話ではないです。

蓮如上人が仰る宿善(『御文章』3帖目第12通)

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。 
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。
 

蓮如上人が仰っている宿善とは、『口伝鈔』の

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。 

を受けて仰っています。 
宿善の機とは、「
浄土教を信受する機」のことです。つまり、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられる人は、宿善の機であり、聖道門の教えを信じて、また聖道門から浄土門に入りながらも法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えを素直に信じられない人は、無宿善の機ということになります。 
蓮如上人の仰る「
宿善にかぎれり」とは、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられるかどうかです。

親鸞聖人がなぜ、宿善という言葉を使われなかったのか、覚如上人、蓮如上人がその親鸞聖人の御心を汲み取られてどのような意味で宿善を使われているのか、親鸞会会員は、よくよく考えてみるべきでしょう。

mixiにおける三願転入の法論19

2010年5月3日

 

宿善という基本的な考え方については、紅楳英顕師の書かれた『派外からの異説について』に詳しい解説があります。ネット上でも公開されています。

「親鸞会教義の誤り」
紅楳英顕著『派外からの異説について』

宿善とは、獲信してから過去を振り返っていうことであって、それを未信の人が未来のこととして考えること自体おかしなことなのです。以下に抜粋しますので、よく読んで理解して下さい。

 そもそも宿善ということについては、私の論文にも述べているように、宗祖
聖人は、
  遇、行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。(『教行信証』総序)
  遇、信心を獲ば遠く宿縁を慶べ。(『浄土文類聚鈔』)

と仰せられてある。宗祖聖人が宿善とは宿因等といわず、宿縁といわれている
のは、『教行信証』も『文類聚鈔』も同じであるが、これは、その直前にある
「弘誓の強縁」(他力)の「縁」の語をうけているものと考えられる。だから、
「遠く宿縁を慶べ」とは、ひとえに他力のお育てによるところであったと慶ば
れているのである。蓮如上人も、
  遇獲信心遠慶宿縁と聖人のあそばし置れたるは、たまたまといふは過去に
  あふと云心なり。又、とおく宿縁をよろこぶといふは、今始めてうる信心
  にあらず、過去遠々の昔より以来の御哀にて今うる信心なり。(『拾遺御一代
  記聞書』)

と述べられている。信心を得たところで過去を振り返り、すべて他力のお育て
によるところであったと慶ばれたのが、宗祖聖人であり、蓮如上人である。
 この点高森親鸞会は、
  宿善というのは過去世の仏縁のことであるが、過去に仏縁浅きものは現在
  において真剣に宿善を求めねばならない。でなければ宿善開発の時節到来
  ということはあり得ない。されば宿善は待つに非ず、求めるものである。
                          (『白道もゆ』212頁)
  まず自身の信心決定をめざせ、そのためには宿善をつめ。イ、聴聞、ロ、
  破邪顕正。(『顕正新聞』第93号)
  真実を知らない人に真実をおしえ、求めねばならぬわけを説いているうち
  に、いや他人に説くことによって自分の聞法心も深まって来るのです。即
  ち宿善が厚くなるのです。法施は最上の布施行だからです。(『こんなことが知
  りたい』②87頁)
  真実の仏法のために浄財はすべて尊い宿善となります。この会費改正にあ
  たって進んで宿善を求めさせて頂きましょう。(『顕正新聞』第175号)

等と主張している。「過去に仏縁浅きものは現代において真剣に宿善を求めね
ばならない」とか「まず信心決定をめざせ、そのためには宿善をつめ」等とい
って、これから信心を得るために自力で宿善を積むことを勧めているわけであ
る。このような主張は、宗祖聖人や蓮如上人が信心を得たところから振り返っ
て宿善を語られたのと、基本的に相違しているといわねばならないであろう。
 私が論文に引用したように、大原性実師も「我々が今日弥陀法に遇い之を信
受奉行することを得し因縁となりしことを悉く宿善と称すべく……」と述べて
おられ、また『新・仏教辞典』(中村元監修)も「前世・過去世につくった善根功
徳をいう、また、人の一代に限って、今まで作った善根を指すこともある」と
出している。これらは、現在から過去を振り返っているのであって、これから
獲信のために修することを宿善といっているのではない。
 ところが、高森親鸞会は、大原師や『新・仏教辞典』の所説を、これから獲
信のために修する善のことであるかのように解釈して、「破邪顕正や財施が諸
善万行にはいるか、はいらないか」と質問してきている。私は、それらが諸善
万行にはいるかどうかは問題にしていないのであり、これから獲信のための宿
善として「破邪顕正や財施をせよ」というようなことは、宗祖聖人や蓮如上人
の上にはないと論じているのである。だから、私の意見に反論するのなら、宗
祖聖人や蓮如上人の上で、その文証を出してほしいと求めたわけである。

(中略)

 また『同書』(150頁)では、宿善があくまでも他力によるというならば、すべ
ての人の宿善が平等でなければならないといい、そして、
  本願寺は宿善の相違を認めないのであろうか、若しそうなら紅楳氏のよう
  な熱心なものもあれば、仏とも法とも思っていない人もいるという厳然た
  る事実をどう説明するのか。

と述べている。
 私は宿善の厚薄(相違)を認めないなどといっているのではない。しかし、私
がご法義を喜ぶ身にならせていただいたのは、自力の善を積んだからであると
は毛頭考えず、ひとえに仏のお導き、お育てによるものと味わっているのであ
る。
 この宿善の問題については、さらに『同書』(151頁以下)に『阿弥陀経』の
  已発願、今発願、当発願。
  若已生、若今生、若当生。

等の文をはじめ、覚如上人の
  十方衆生のなかに浄土経を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんと
  ならば『大経』の中に説くが如し、過去の宿善厚き者は今生にこの教えに
  値うてまさに信楽す、宿福なき者はこの教えに遇うといえども念持せざれ
  ばまた遇わざるが如し。(『口伝鈔』)

の文や、蓮如上人の
  陽気・陰気とてあり、されば陽気をうくる花は早く開くなり、陰気とて日
  陰の花は遅く咲くなり。かように宿善も遅速あり、されば已今当の往生あ
  り弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く開くる人もあり。(『御一代
  記聞書』)

の文等を引いて、往生に遅速があるのは宿善が平等でないからであり、宿善が
平等でないことは他力ではないからであるという旨を述べている。
 この点については、すでに私の論文でもふれておいたが、本派の宗学上にお
いても、宿善自力説・宿善他力説・当相自力体他力説等と、学的見解の別れる
ところである。私は、宿善は他力と味わっているが、宿善自力というも、当相
自力体他力というも、それは獲信の立場から振り返って宿善の物体を論ずるこ
とであって、高森氏のように、これから獲信のために自力の宿善を修せよとい
うような宿善論は、先哲の説にもなく、もちろん宗祖聖人をはじめ覚如上人、
蓮如上人の上にも示されていないのである。
 高森親鸞会が引用している覚如上人の『口伝鈔』には、その文の次下に、
  しかれば往生の信心のさだまることは、われらが智分にあらず、光明の縁
  にもよをしそだてられて名号信知の報土の因を得としるべしとなり。これ
  を他力といふなり。

とあるように、覚如上人も、他力のお育てにより信を得ると仰せられてある。
蓮如上人が他力を慶ばれたことについては、今さら論ずるまでもないことであ
る。したがって、覚如上人・蓮如上人の所説に往生の遅速の問題があるからと
いって、宿善が他力のお育てによるとよろこぶことを否定する理由にはならな
いのである。

mixiにおける三願転入の法論18

2010年5月2日

 

mixiでは、こうへい氏が一部の質問に答えました。が、ぼこぼこにされています。

1.「親鸞聖人の三願転入の教え」という親鸞聖人のお言葉については、

教行信証』全体

というふざけた回答は論外ですが、もう一つは解説が必要です。

4.『一念多念証文』にある「浄土の方便の善」が「宿善」という根拠 

これは、確かに申し上げました。 
根拠は、 

「いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れりと見えたり」(御文章) 

の一言で充分でありましょう。

親鸞会の現会員、元会員の人は、納得してしまうかもしれません。しかし、大変な間違いです。
ここは、
「親鸞会教義の誤り」
宿善とは4

を読まれるといいですが、mixiの中で、sutybi氏が簡単に解説されています。

蓮如上人が仰る宿善(『御文章』3帖目第12通)

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。 
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

蓮如上人が仰っている宿善とは、『口伝鈔』の

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

を受けて仰っています。 
宿善の機とは、「浄土教を信受する機」のことです。つまり、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられる人は、宿善の機であり、聖道門の教えを信じて、また聖道門から浄土門に入りながらも法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えを素直に信じられない人は、無宿善の機ということになります。 
蓮如上人の仰る「宿善にかぎれり」とは、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられるかどうかです。

いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり」と、「浄土の方便の善」とは、直接の繋がりがないのです。

でも、

『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。

とあるから、過去に行ってきた善ではないのか、と思われる方があるかも知れません。しかし、「善本」の意味を考えられれば判られると思います。親鸞会でも「善本」とは、名号と教えています。根拠は、『教行信証』化土巻に

善本とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。ゆゑに善本といふなり。

とある通りです。また「若人無善本不得聞此経」のお言葉を、親鸞聖人は化土巻の真門釈のところで引いておられます。要門釈ではありません。
高森会長も『会報 第三集』に

係念の宿善というのは過去に於て自力ながらも心を阿弥陀仏一仏にかけて念仏してきた善根をいい、諸仏の浄土を願わず、ただ弥陀一仏に念を係けて来たのだから係念といわれる。
『大無量寿経』には、これを「若人無善本」といい、二十願には「植諸徳本」と説かれている。『定善義』に「過去已曾・修習此法・今得重聞」とあるのも、この係念の宿善を示すものである。

と書いています。参考までに「係念の宿善」という言葉は、浄土宗の鎮西派で使われるものです。
ですから、蓮如上人がここで仰っている「宿善」には、諸善の意味は含まれていないのです。

こうへい氏もそのことに気が付いて、反論できないのでしょう。もちろん、自分の非を認めることもしません。

親鸞会教学とは、単語、一つの文でしか理解していない、断章取義で貫かれています。前後の文章を読むだけで、意味が変わってきます。

宿善」については、真宗、浄土宗以外でも使われていまして、「宿世の善根」、というのが一般的な意味です。しかし真宗で使われている時は、ほとんどが「阿弥陀仏のお育て」という意味です。気を付けないと、親鸞会に騙されてしまいます。

『口伝鈔』も読んだことがない、と告白しているのですが、今や驚くことでもないですね。

mixiにおける三願転入の法論17

2010年4月30日

 

行者のはからひは自力なれば義といふなり」のところで、『末灯鈔』の

如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。

を紹介しました。法然上人の「他力には義なきを義とす」というお言葉を、親鸞聖人は上記以外でも何回も使われています。

正像末和讃

聖道門のひとはみな
 自力の心をむねとして
 他力不思議にいりぬれば
 義なきを義とすと信知せり

「自然法爾章」
「法爾」といふは、如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ。この法爾は、御ちかひなりけるゆゑに、すべて行者のはからひなきをもちて、このゆゑに他力には義なきを義とすとしるべきなり。

『三経往生文類』

これをこころえて、他力には義なきを義とすとしるべし。

『如来二種廻向文』

「他力には義なきをもつて義とす」と、大師聖人(源空)は仰せごとありき。

『末灯鈔』

すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。

つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。

また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは、行者のおのおののはからふことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。このこころのほかには往生に要るべきこと候はずとこころえて、まかりすぎ候へば、人の仰せごとにはいらぬものにて候ふなり。

『御消息』

また弥陀の本願を信じ候ひぬるうへには、義なきを義とすとこそ大師聖人(法然)の仰せにて候へ。 
かやうに義の候ふらんかぎりは、他力にはあらず、自力なりときこえて候ふ。また他力と申すは、仏智不思議にて候ふなるときに、煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりを得候ふなることをば、仏と仏のみ御はからひなり、さらに行者のはからひにあらず候ふ。しかれば、義なきを義とすと候ふなり。義と申すことは自力のひとのはからひを申すなり。
他力には、しかれば、義なきを義とすと候ふなり。

親鸞聖人はこのように好んで使われたお言葉ではありますが、法然上人は頻繁に仰ったとは必ずしもいえません。現在確認できるものでは、

「護念経の奥に記せる御詞」の

浄土宗安心起行の事、義なきを義とし、様なきを様とす。浅きは深きなり。只南無阿弥陀仏と申せば、十悪五逆も、三宝滅尽の時の衆生も、一期に一度善心なきものも決定往生遂るなり。釈迦弥陀を証とす。

だけです。他にもあったという記録はありますが、現在では不明です。親鸞聖人は、これこそが捨自帰他を表す最適のお言葉であると思われたのでしょう。

行者のはからいは自力であり、はからいのないのが他力なのです。
はからいとは、もちろん阿弥陀仏の救いに対してのことです。18願に誓われていないこと、成就文で教えられていないこと、善知識方の仰っていないことを、これが正しい教えなり、と考えることは”はからい”以外の何物でもありません。

他力には義なきを義とす

こうへい氏のような屁理屈は一切不要です。教えられたことをそのまま受け取るのです。

mixiにおける三願転入の法論16

2010年4月27日

 

mixiでの三願転入の議論は決着していますが、自力のことについて論点をずらしたいこうへい氏がしつこく書いていますので、親鸞聖人のお言葉から、自力について再度まとめておきます。

下手な解説を加えるよりも、そのまま読まれた方がよろしいとは思いますが、参考までに現代語訳を付けておきます。

『唯信鈔文意』

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。

(現代語訳)
自力の心を捨てるということは、大乗・小乗の聖人、善人・悪人すべての凡夫、そのような色々な人々、さまざまなものたちが、自分自身を是とする思いあがった心を捨て、わが身をたよりとせず、こざかしく自分の悪い心を顧みたりしないことである。それは具縛の凡愚・屠沽の下類も、ただひとすじに、思いはかることのできない無礙光仏の本願と、その広く大いなる智慧の名号を信じれば、煩悩を身にそなえたまま、必ずこの上なくすぐれた仏のさとりに至るということである。

『一念多念証文』

自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。

(現代語訳)
自力というのは、わが身をたのみとし、わが心をたのみとすることであり、自分の力を頼って行にはげみ、自分がつくるさまざまな善を頼りにする人のことである。

『末灯鈔』

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。

(現代語訳)
まず自力ということは、行者がそれぞれの縁にしたがって、阿弥陀仏以外の仏の名号を称え、あるいは念仏以外の善を修めて、自身をたのみとし、自らのはからい心で、身・口・意の三業の乱れをとりつくろい、立派に振舞って浄土に往生しようと思うことを自力というのです。

教行信証』化土巻

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

(現代語訳)
定善の専心・散善の専心とは、罪を恐れ自分の善をあてにする心で本願力を願い求めるのであり、これを自力の専心というのである。

親鸞聖人は自力についていろいろの言い方をされています。

・みづからが身をよしとおもふこころ
・わが身をたのむ
・わが心をたのむ
・あしきこころをかへりみる
・余の仏号を称念する
・余の善根を修行する
・身・口・意の三業の乱れをとりつくろう
・めでたうしなす
・罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す

かなり具体的なところまで言及されています。最後の「罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す」は、親鸞会の教えと真っ向から対立するものです。

自力が廃るまでは「罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す」が正しいのだ、と主張するでしょうが、そんなややこしいことをどこにも仰っていません。捨てよ、といわれたら、捨てればいいのです。それを、どうこういっているのが、「あしきこころをかへりみる」です。

自力を捨てるのは最後は阿弥陀仏のお力ではありますが、自分で捨てられるものは素直に捨てるのです。捨てようと思ってもどうしても捨てられない自力を阿弥陀仏にお任せするのです。それが捨自(自力無功)であり帰他(他力全託)なのです。

愚者になりて往生す」とは、そういうことだと味わっております。

mixiにおける三願転入の法論15

2010年4月25日

 

mixiでの三願転入の議論が事実上終了しました。こうへい氏は自分の主張の説明もせず、解釈が普通でないことに対する説明も裏付けも全くなく、一方的に質問をし続けましたので、こうへい氏との議論を打ち切ったということです。

最後にこれまでの議論の流れがまとめてありましたので、紹介しておきます。

もともと議論の中心は、要門釈のお言葉に対する解釈の違いです。

143においてこうへいさんの

>御本典の「化土巻」の要門釈に19願をお話しくだされている 
>「ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、 
>阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。」 
> 
>と言われている「群生海」とは、19願文の「十方衆生」です。 
>19願の相手は、「群生海」なのです。 
>明らかに、 
>19願の対象は、「迷えるすべての人」と言われていると思います。

との発言から19願の対機の議論が始まりました。 
それに対してるぅでるさんが172で

>「しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、 
>真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、 
>虚なるものははなはだもつて滋し。」 
> 
>あなたが引用した要門釈のお言葉の前半部分がこれです(僕も引用したとおりです)。ここが抜けているから、そのようなおかしな疑問が出てくるのです。 
>このお言葉の意味は、 
> 
>外道の人が半字教(小乗仏教)、満字教(大乗仏教)、権教(四車家の立場から聖道門内の三乗)、 
>実教(四車家の立場から聖道門内の一乗)、つまり堅出堅超に入るといえども、真実のものは 
>はなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。 
> 
>そして次の 
> 
>「ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく 
>諸有海を化したまふ。」 
> 
>に続くのです。 
>ですから、要門釈のお言葉で「聖道門の人が対象」と親鸞聖人はハッキリ仰っているのです。

と反論され、その後『平等覚経』『大阿弥陀経』『選択本願念仏集』『西方指南抄』『尊号真像銘文』を根拠として加えられました。 
るぅでるさんの解釈は、るぅでるさん独自のものではなく、『真宗大辞典』等にも代表されるように、先哲方に共通したごくごく「普通」の解釈です。

親鸞聖人は、19願を聖道門の人を浄土門に誘引する願とみられ、浄土門の人に対しては、化土往生を誓われた願であるから18願を願いなさい、としか仰っていないとるぅでるさんは主張されています。

しかし、こうへいさんは、るぅでるさんとは【解釈が異なる】と言われて、どこがどう違うのか説明をされずに出された根拠が、『一念多念証文』でした。

そこで、るぅでるさんは『教行信証』化土巻をもとに、先哲方と同じ「普通」の解釈をすれば、『一念多念証文』のお言葉はるぅでるさんの主張の正しさを証明するものでしかありません。

それに対してこうへいさんは、【解釈が異なる】といわれるのみで、どこがどう異なるのか一切説明されません。

また、『一念多念証文』の「方便の善」とは「宿善」とこうへいさんは解釈されましたので、私が『教行信証』化土巻の「如来の異の方便、欣慕浄土の善根」というお言葉を挙げて、「宿善」という意味ではない、と説明しましたが、こうへいさんは、【解釈が異なる】といわれるのみで、やはり説明されません。

一方、根本的な問題としてこうへいさんが「親鸞聖人の三願転入の教え」と度々言われましたので、法然聖人、覚如上人、蓮如上人も三願転入については全く仰っていないし、親鸞聖人も御自身の体験として『教行信証』化土巻にのみ仰っているだけなので、「親鸞聖人の三願転入の教え」という親鸞聖人のお言葉を示して下さい、との度重なる質問には、【一切無視】です。

こうへい氏は、得意(?)になって、未だに捨自帰他について質問し続けていますが、こうへい氏は、自力の意味さえも「普通」ではないので、最早、言語が異なっていると表現した方がよいと思います。同じ漢字を使っても、日本語と中国語では意味が異なることがあります。その状態です。

親鸞聖人は『御消息集』の中で、法然上人のお言葉を紹介しておられます。

文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」

学者ぶった議論をして、いかにも賢そうに振舞っている人に対して、往生はどうであろうか、と法然上人が仰ったそうですが、これはまさにこうへい氏のことでしょう。賢そうに振舞ってはいますが、殆どが根拠のない空論でしかないところは、「文沙汰して」とは言い難いかもしれません。

親鸞会出身者は、言語の違いを修正するのに時間が掛ると思いますが、直接、お聖教を読むことで、少しずつ正しい意味が判ってくると思います。当ブログでも、そのお手伝いができるように、多くの根拠を挙げて説明していきたいと思っています。

もう一つの法然上人のお言葉

浄土宗の人は愚者になりて往生す

とありますように、善知識方の仰ったことを、素直に、そのまま受け取ることが大事です。

mixiにおける三願転入の法論14

2010年4月22日

 

昨日、自力と他力について少し述べましたが、ここは非常に重要ですので、昨日紹介しました『末灯鈔』のお言葉について、再度みてみましょう。

 それ浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺(印度)の論家、浄土の祖師の仰せられたることなり。 
 まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。
 しかれば、わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべからず、凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわがこころよければ往生すべしとおもふべからず、自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり。

参考までに、浄土真宗教学研究所の現代語訳も載せておきます。

 浄土真宗の教えでは、往生を願うものについて他力のものと自力のものとがあります。このことはすでにインドの菩薩がたをはじめ、中国や日本の浄土の祖師がたが仰せになっていることです。
 まず自力ということは、行者がそれぞれの縁にしたがって、阿弥陀仏以外の仏の名号を称え、あるいは念仏以外の善を修めて、自身をたのみとし、自らのはからい心で、身・口・意の三業の乱れをとりつくろい、立派に振舞って浄土の往生しようと思うことを自力というのです。また他力ということは、阿弥陀仏の四十八願の中で、真実の願として選び取ってくださった第十八の念仏往生の本願を疑いなく信じることを他力というのです。それは阿弥陀仏がお誓いになられたことですから、「他力においては義のないことをもって根本の法義とする」と、法然上人は仰せになりました。「義」というのは、はからうという言葉です。行者のはからいは自力ですから、「義」というのです。他力とは、本願を疑いなく信じることで間違いなく往生が定まるのですから、まったく「義」はないということです。
 ですから、この身が悪いから、阿弥陀仏が迎え取ってくださるはずがないと思ってはなりません。凡夫はもとより煩悩を身にそなえているのですから、自分は悪いものであると知るべきです。また自らの心が善いから、往生することができるはずだと思ってはなりません。自力のはからいでは、真実の浄土に生れることはできないのです。

如何でしょうか。自力といいましても、いろいろあるのです。親鸞会では、信一念で、すべての自力が一度に廃るという理解をしていますが、「余の仏号を称念」することは、浄土門に入る以前の話ですし、「余の善根を修行してわが身をたの」むことも、浄土門では最初に捨てるべきものです。信一念まで、「余の仏号を称念」することを信じているとでも思っているのでしょうが、余りにも御粗末です。

自力のあるままでは、報土には往けません。自分の行いの善悪を問題にすることが、自力のはからいです。善をしたら信仰が進むとか進まないとか、19願を必ず通るのだからとか、そんな低レベルの考えは、早く捨てないといけません。

親鸞会の教義は、言葉は浄土真宗でも、意味が全く違います。敢て言えば、親鸞会の理解は日蓮宗に近いと思います。

現会員さんは、親鸞聖人の御著書も読んだこともなく、言葉の意味も何も知らない高森会長をいつまで信じているのでしょうか。
親鸞聖人の御著書を拝読しましょう。『御文章』を拝読してください。
そうすれば、高森会長が如何に無知であるかがよく判ります。

mixiにおける三願転入の法論13

2010年4月21日

 

mixiで、こうへい氏は自己の主張を説明することさえ放棄して質問を繰り返すという、親鸞会のいつもの汚い論法を続けています。相手が呆れて退散するまでやり続けるのでしょう。教義だけでなく人間性までも崩壊しています。

ところで、こうへい氏がしつこく質問している「捨自帰他」について、今日は親鸞聖人のお言葉が紹介されていました。

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。具縛はよろづの煩悩にしばられたるわれらなり、煩は身をわづらはす、悩はこころをなやますといふ。屠はよろづのいきたるものをころし、ほふるものなり、これはれふしといふものなり。沽はよろづのものをうりかふものなり、これはあき人なり。これらを下類といふなり。(唯信鈔文意)

浄土真宗教学研究所の現代語訳では、

自力の心を捨てるということは、大乗・小乗の聖人、善人・悪人すべての凡夫、そのような色々な人々、さまざまなものたちが、自分自身を是とする思いあがった心を捨て、わが身をたよりとせず、こざかしく自分の悪い心を顧みたりしないことである。それは、具縛の凡愚・屠沽の下類も、ただひとすじに、思いはかることのできない無碍光仏の本願と、その広く大いなる智慧の名号を信じれば、煩悩を身にそなえたまま、必ずこの上なくすぐれた仏のさとりに至るということである。

とあります。親鸞会の心得違いを親鸞聖人が痛烈に非難されているものと思うのは私だけではないでしょう。
先哲の解釈を問題外と切り捨てる「自分自身を是とする思いあがった心」をもった親鸞会は、親鸞聖人が仰る自力の意味など、到底理解できる筈もないでしょう。

これ以外に親鸞聖人が自力について説明しておられるところは、

自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。(一念多念証文)

それ浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺(印度)の論家、浄土の祖師の仰せられたることなり。 
 まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。(末灯鈔)

「他力には義のなきをもつて義とす」と、本師聖人(源空)の仰せごとなり。「義」といふは行者のおのおののはからふこころなり。このゆゑにおのおののはからふこころをもたるほどをば自力といふなり。よくよくこの自力のやうをこころうべしとなり。 (尊号真像銘文)

などです。
三願転入という概念にいつまでも囚われているばかりか、それを「教え」としているのは、歴代の善知識方も教えられなかった「教え」を説く、歴代の善知識方よりも勝れたことを教えているんだという「みづからが身をよしとおもふこころ」です。とんでもない自惚れです。

また、以前にも紹介しましたが、

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。(教行信証化土巻)

と仰っていますように、因果の道理を信じて救われようとすることまでも、自力であると厳しく誡められています。

以上の親鸞聖人のお言葉を理解すれば、『本願寺なぜ答えぬ』にある

「獲信の因縁に、善をすすめる親鸞会は、間違いだ。 
修善のいらぬ真宗に、善をすすめる文証など、あろうはずがない」 
 耳目を疑う、本願寺の非難に、文証をあげて、親鸞会は、次のように、答えてきた。 
"汝は、修善をすすめる弥陀仏の、十九の願を、お忘れか。 
定散二善をすすめた観経の、釈迦の教説をしらざるや〟と。 
 でなければ、本願寺サン。 
"弥陀の十九願や、定散二善は、獲信の因縁として説かれたもの〟と、まだ、ご存知ない、としか考えられぬ。

などは、親鸞聖人と真逆のことを教えていることがお判り頂けると思います。

どこまで親鸞聖人の教えを曲げれば気が済むのでしょうか。

mixiにおける三願転入の法論12

2010年4月19日

 

mixiでは相も変わらず、こうへい氏が言い訳をしています。実に親鸞会らしい言動です。
未だに聖道門は、信の一念まで捨てられないということを言いたいようです。
何度も聖道門について書いているのは、そのためですが、理解力のない人物のために、もう暫くお付き合い下さい。
親鸞聖人は、聖道門と浄土門の違いについて、これまで挙げてきた根拠以外にも、仰っています。その1つがmixiに紹介されていました。

教行信証』化土巻

また菩薩はすでに生死を勉れて、所作の善法回して仏果を求む、すなはちこれ自利なり。衆生を教化して未来際を尽す、すなはちこれ利他なり。しかるに今の時の衆生、ことごとく煩悩のために繋縛せられて、いまだ悪道生死等の苦を勉れず。縁に随ひて行を起して、一切の善根つぶさにすみやかに回して、阿弥陀仏国に往生せんと願ぜん。かの国に到りをはりて、さらに畏るるところなけん。上のごときの四修、自然任運にして、自利利他具足せざることなしと、知るべし

この解釈を梯實圓著『顕浄土方便化身土文類講讃』より引用

 つぎに「また菩薩はすでに生死を勉れて、所作の善法回して仏果を求む」等といわれたのは、四修釈の結文である。はじめに「菩薩はすでに生死を勉れて」と訓点されているように分段生死をはなれている初地以上の大菩薩の自利利他の行相を挙げて、聖道門は、このような大菩薩であってはじめて如実に実践できる仏道であると示されるのである。それにひきかえ「今の時の衆生、ことごとく煩悩のために繋縛せられて、いまだ悪道生死等の苦を勉れず」といって、それは末法濁世の凡夫には堪えられない難行であることを知らせ、「縁に随ひて行を起して、一切の善根つぶさにすみやかに回して、阿弥陀仏国に往生せんと願ぜん」と、聖道を捨てて易行易修の浄土門に帰し、往生浄土を期すべしと勧められている。しかしその「縁に随ひて起こした行」は、『法事讃』下に「極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善おそらくは生じがたし」といわれた「随縁の行」であるから、無為涅槃界である報土の因となる本願の行ではなくて、化土の因でしかない定散行を勧められていることがよくわかる。したがってこれは『観経』の顕の義、すなわち要門が聖道門の機を浄土門へと導いていく有様を具体的に示された文であったといえよう。

菩薩の歩む道とは、聖道門であることは、親鸞聖人のお言葉からも明らかです。
『大無量寿経』19願の「十方衆生」にあたる『平等覚経』『大阿弥陀経』の部分には、「作菩薩道者」とありますので、19願はまさに聖道門の人を浄土門に導くための願です。

また同じ梯實圓著『顕浄土方便化身土文類講讃』より以下の部分が引用されていました。

 親鸞聖人が第十八願・第十九願・第二十願の三願に真仮の別を見られたといったが、このように四十八願のなかに真仮を見るのは聖人の独自の発揮であって、古今に例を見ないところである。 
(中略) 
 ところでこの三願に真仮を見られた祖意を先哲は種々に考察されているが、鮮妙師は、それらをまとめて、『宗要論題決擇編』巻一に、

 四十八願の至要たる「重誓偈」に徴するに、名号流布を誓て諸行を誓はず、 
 況んや六八願中多く聞名の得益を願ずと雖も諸行及び植諸徳本を誓はず。 
 又直ちに生因三願について伺ふに五由あるべし。一つには信行前後の異、 
 二つには信楽有無の異、三つには乃至有無の益、四つには得益定不の異、 
 五つには唯除有無の異これなり。

といっている。四十八願の中には聞名の益は説かれているが、諸行の益は説かれていないし、四十八願を要約した「重誓偈」にも諸行往生は説かれず、植諸得本も説かれず、ただ名号の流布のみを強調されているということは、第十八願の聞名往生を仏の随自意真実とみなされている証拠であるというのである。そして、さらに三願を対望して五由を挙げて詳細にその仏意を探っている。 
(中略) 
 五つに唯除有無の異とは、第十八願にのみ「唯除五逆誹謗正法」と逆謗抑止の文がおかれている。『尊号真像銘文』には、上の「若不生者」の釈につづいて、

 「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、 
 誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめ 
 して、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

といわれている。これによって第十八願の救済の対象となっている機は、五逆をつくり、正法を誹謗するような、極悪のものを含めた十方衆生であるから、善悪・賢愚を簡ばず一切の衆生を所被の機とされていることがわかる。これに対して第十九願・第二十願にこのような抑止の言葉がないのは、いずれも善人のみを所被の機とされていて、逆謗を抑止する必要がなかったからである。ここに、善人のみの救いを誓われる第十九願・第二十願と、特に悪人を回心させて救うことに焦点を合わせている第十八願との違いが明らかになるというのである。このようにして生因三願を対照すると、第十八願には他力廻向の行信による万人平等の救いが誓われており、第十九願・第二十願には自力の行信による往生が誓われていることがわかるのである。どちらに如来の平等の大悲の本意が顕われているかは明瞭である。 
(中略) 
 第十九願・第二十願は、自力の執着がふかく、罪(悪)福(善)の因果に則った廃悪修善の教えは信じても、善悪を超えた他力不思議の救いを受け容れることが出来ない未熟のものを育てるために施設された権仮方便の教えであるというのが親鸞聖人の領解であった。特に第十九願は、聖道門の機を浄土門に誘引するために諸行往生を誓われた方便の誓願であり、第二十願は、諸行往生の機を自力念仏の機に育て、さらに第十八願の他力念仏に入れしめるための方便願であるといわれている。

19願要門の対機について説明されたものです。悪人にとりましては、聖道門は「今の時の衆生、ことごとく煩悩のために繋縛せられて、いまだ悪道生死等の苦を勉れず」で難しいのですが、19願さえも対機ではないのです。19願からも漏れているのです。

当ブログの読者の方々の主張は、これらにも一致していますので、普通の解釈といえるでしょう。

しかし、こうへい氏は、誰がどんな解釈をしようがお構いなしで、親鸞会教義が正しいのだから正しいのだという論理展開です。

上から目線でしか話ができませんので、まともな議論は成立しないでしょう。

mixiにおける三願転入の法論11

2010年4月17日

 

前回、親鸞聖人が聖道門についてどのように見られていたかを簡単に述べましたが、もう少し解説したいと思います。

『末灯鈔』に

聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真言宗法華宗華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。仏心宗といふは、この世にひろまる禅宗これなり。また法相宗成実宗倶舎宗等の権教、小乗等の教なり。これみな聖道門なり。権教といふは、すなはちすでに仏に成りたまへる仏・菩薩の、かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権といふなり。

親鸞聖人は仰っています。聖道門とは、仏になられた方が還相の菩薩となって、わたしたちを導こうとされているものと位置付けられています。具体的には、禅宗真言宗法華宗華厳宗・三論宗・法相宗成実宗倶舎宗及び小乗と仰っています。一般的に言われている聖道仏教です。
仏智を持たれて従果降因された菩薩が、様々な姿となって、自力に執着している人を調育誘引していかれると親鸞聖人は見られているのです。聖道仏教とは、浄土仏教とは別のものではありますが、浄土仏教へ導くための教えと親鸞聖人は仰っているのです。

阿弥陀仏と諸仏方が、聖道門から要門へ、要門から弘願へと導かれるのです。これを権仮方便といい、『教行信証』化土巻では、

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。

とある中で最後に「方便権門の道路」と仰ったのです。18願をとても信じ切れない未熟の者達に対しての仮の教えです。それは機に応じてですので、皆が聖道門、要門を必ず通ると言うものではありません。

前回からここまでのところをよく理解されれば、権仮方便の意味がお判り頂けるのではないかと思います。

方便とは、阿弥陀仏、諸仏が私たちになされることであって、私が方便と思って何かをするのではないのです。私たちの機に応じて、聖道門を駆使されることもあるでしょうし、要門で調育されることもあるでしょう。それを、私たち自身が、要門にまだ入っていないから、要門に入るために善に励むなどというのは、自惚れも甚だしいことです。

高森会長は、自惚れているから善のできない自分と知らされるまで善をせよ、といいますが、それこそ仏にでもなったつもりなのでしょうか。

親鸞聖人は、聖道門から要門へ、要門から弘願へという「方便権門の道路」を示されましたが、親鸞会的な思考に従うならば、聖道門から始めなさいです。でも、俗人のトップから、聖道門から始めよとたとえ言われても、説得力は0ですねどね。

mixiにおける三願転入の法論10

2010年4月15日

 

先日、「聖道門の人」「浄土門の人」について少し書きましたが、mixiではそれが問題になっているようです。出されている根拠は、『教行信証』化土巻の

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。 
安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。

です。この解説として山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』が紹介されていました。

 凡て釈尊一代の教法に就いて其の証果を獲るといふ結果の方面から観察するに、此の娑婆世界に於て聖果を獲るのを聖道門と名づけ、又これを修道の困難といふ点から難行道とも云はれてをる。この聖道門の中に大乗あり小乗あり、漸教あり頓教あり、菩薩一乗の法門あり、声聞縁覚二浄の法門あり、又声聞、縁覚、菩薩三乗の法門あり、又権教、実教、顕教、密教と分れ、又自力の漸教たる竪出の教、自力の頓教たる竪超の教がある。かやうに様々の教と分れてゐるけれども、深くこれ等諸教の帰一する意義を繹ぬるに、一括して自力教であるが、此の自力の法門を衆生に勧め給ふは還相廻向の菩薩である。此の菩薩は衆生済度の利他教化地の果より此の世に出現はれて、これ等自力の権仮方便の教をもって衆生を誘引して遂に真実門に入らしめんとし給ふものである。即ち釈尊一代の教へに聖道浄土と対立する二つの法門のある筈はない。其の所謂聖道門なるものは、浄土の還相の菩薩が衆生の機に応じて説き給ふ所の方便の門戸に過ぎないのである。この真実の見解に立てば、恰も千里の霧晴れて、碧空に銀輪の影さはやかなる如く、全法界をつくして他力真実の一法が長へに光を放ってゐるのみである。 
 聖道門の此の土に証果を獲るに対して、安養浄土に於いて聖果を得る教を浄土門と名づけるのである。これを又、実修上より聖道門の難行道に対して易行道といふ。 
 因みに易行といふことは、単に「行じ易い」といふ便宜的な功利的な表はしてゐるのではなく、真実の大道に入る説きは、自と自然法爾の道理にて易行といふ結果をもち来すので、これは其の儘、教の真実なることを反証してゐるのである。 
 此の浄土門の中には要門自力の教へたる横出、弘願他力の教へたる横超の二がある。前者は権仮方便の教へ、後者は弘願真実の教へである。そして要門は漸教、弘願は頓教、又これは助正、雑行、雑修、専修等に分たれてある。

これが標準的な解釈だと思います。
また『末灯鈔』には

聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真言宗法華宗華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。仏心宗といふは、この世にひろまる禅宗これなり。また法相宗成実宗倶舎宗等の権教、小乗等の教なり。これみな聖道門なり。権教といふは、すなはちすでに仏に成りたまへる仏・菩薩の、かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権といふなり。

とあります。

ちなみに聖道門は竪出・竪超、浄土門は横出・横超です。

具体的には
竪超-華厳宗天台宗真言宗禅宗
竪出-法相宗・三論宗
横超-18願
横出-19願、20願

となりまして、これを二双四重の教判といいます。

聖道門と浄土門との違いは簡単だと思いますけど難しくしたいのでしょうか。

mixiにおける三願転入の法論9

2010年4月13日

 

例の『一念多念証文』のお言葉は、もともと『教行信証』化土巻の要門釈をコンパクトにまとめられたものです。

以下の部分が特に関係の深いところです。

宗師(善導)の意によるに、「心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり。漸・頓すなはちおのおの所宜に称へり。縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る」(玄義分)といへり。
しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。
「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。

浄土真宗教学研究所編の現代語訳も載せておきます。

善導大師の説かれた『観経疏』によれば、「衆生の心にしたがって釈尊はすぐれた行をお説きになった。その教えは八万四千を超えている。漸教も頓教もそれぞれ衆生の資質にかなったものであり、縁にしたがってその行を修めればみな迷いを離れることができる」(玄義分)といわれている。
しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない。心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。散善の行も修めることができない。悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。このようなわけで、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することさえできないのだから、『観経疏』には、「たとえ千年という長い寿命を費やしても、真実を見る智慧の眼が開かない」(定善義)といわれている。ましてすべての相を離れ、真如法性をそのまま観ずることなど決してできない。だから、『観経疏』には、「釈尊は、はるかに遠く、末法の世の煩悩に汚れた衆生のことを、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することなどできないと見通しておられる。ましてすべての相を離れて真如法性を観じようとするなら、それは、神通力のないものが空中に家を建てようとするようなものであり、決してできるはずがない」(定善義)といわれている。
『観経疏』に「その教えは八万四千を超えている」(玄義文)といわれているのは、「教え」とは八万四千の方便の教えであり、自力聖道門のことである。「超えている」のは本願一乗海の教えであり、他力浄土門のことである。

八万四千の法門を「仮門」と仰り、その他に十方衆生の救われる真実の法門、弘願があることを教えられているのです。
ここで八万四千の法門を、聖道門と要門に分けて仰ったのが、『一念多念証文』です。もう一度載せておきますので、よく見比べて下さい。

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。 
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

聖道門を要門に誘引し、要門から弘願一乗へと導かれることを仰ったものです。ですから、落ち着いて考えて頂ければ判ると思いますが、聖道門の人を要門にですので、要門は聖道門の人のためのものです。
これを、浄土門の人も要門から、と読んでしまうからおかしくなるのです。

ここは善を勧められたのでもなければ、三願転入を説かれたのでもありません。要門の役割を仰ったものです。

親鸞聖人は要門19願を勧められていないことは、これまで何度も述べてきました。一度頭を空にして、お聖教を拝読するようにしてください。そうすれば、今まで繋がらなかったところが繋がって、親鸞聖人の教えが判ってくる筈ですが。先入観を抜くことは難しいでしょうかね。

mixiにおける三願転入の法論8

2010年4月11日

 

昨日、『一念多念証文』の以下の御文について少し述べました。

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。 
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

この「方便の善」は、浄土門の人も善をしなければならないと親鸞会では教えていますが、論理がおかしいのです。
『顕真』3月号には、上記のお言葉を挙げて、

 これら仏教で教えられる諸善万行は、『観無量寿経』に説かれる定散二善に集約される。
『観経』は、「弥陀の浄土に往生したい」と弥陀の救いを求める韋提希夫人と未来の人々(私たち)のために、釈尊が説かれたものだ。言うまでもなくそれは、善を実行させるためである。

 要ず通らねばならぬ門

 弥陀の本願一つを説くことを出世の本懐とされた釈尊が、なぜ廃悪修善をかくも勧められるのか。
 この修善の勧めが、弥陀の救いと無関係であるはずがない。
 親鸞聖人はズバリ、
「みなこれ浄土の方便の善なり」
「これみな浄土方便の要門なり」
と断定されている。
 すべては弥陀の本願(十八願)に相応させ、浄土往生を果たさせるためのご方便であったのだ。
 それは、釈迦の独断ではない。阿弥陀如来が、十方衆生を真実の十八願の救済に導かんがために、方便の十九願で「修諸功徳」と勧められているからである。

と書いていますが、「善を実行させるため」と勝手な解釈をしています。
つまり
浄土の方便の善」=「善の実行
としていますが、こんな意味である訳がないです。

昨日もいいましたし、mixiでも問題になっていましたが、親鸞聖人のお言葉を解釈する時の元になるのが御本典である『教行信証』です。『教行信証』化土巻の要門釈には、善の実行、善の勧めと解釈できそうなところは、全くありません。要門を勧められてもいません。

要門とは、聖道門の人を浄土門に入れるための門であって、浄土門に入った人が要門を通るのではありません。
たとえていえば、聖道仏教という地域から浄土仏教という地域の境界にあるのが、要門ですから、浄土仏教という地域にいる人が、要門を潜る必要はありません。聖道仏教という地域にいる人に、浄土仏教という地域に行きたいと思わせるのが、「方便」であり、「欣慕浄土の善根」なのです。

それが判れば、親鸞会の解釈が如何におかしいかが判られるのではないでしょうか。

『一念多念証文』の浄土真宗教学研究所による現代語訳を参考までに紹介しておきますので、これまでのことを踏まえて何度も読んで下さい。

総じて八万四千といわれる釈尊の教えは、みな浄土の教えに導く方便としての善なのである。これを要門といい、これを仮門と名づけるのである。この要門・仮門というのは、すなわち『観無量寿経』にお説きになっている定善・散善の教えである。定善とは、心を一つに定めて修める十三の観察の行であり、散善とは、散漫な心のまま修める三福の行であり、九品のものの修めるさまざまな善である。これらはみな浄土の教えに導く方便としての要門であり、これを仮門ともいうのである。この要門・仮門により、さまざまな衆生を導き育んで、阿弥陀仏の本願すなわち一乗円融無礙の真実功徳の大宝海に導き入れてくださるのであるから、すべての自力の善は、これを方便の教えというのである。

親鸞会のトリックがお判りになりましたか?

mixiにおける三願転入の法論7

2010年4月10日

 

親鸞会では、『一念多念証文』の以下の御文をもって、親鸞聖人の善の勧め、19願の勧めと教えています。

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。 
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

方便の意味が根本的に間違っていますので、そのような解釈しかできないのでしょう。
昨日も紹介しました『教行信証』化土巻・要門釈

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。 偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。 
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

の意味を踏まえられれば、聖道門の人を浄土門に導き入れるものが、要門であり、仮門と言われているのです。
浄土の方便の善」を宿善と言い換えていますが、これも間違いです。この後の三経隠顕問答に、

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。

とありまして、「如来の異の方便、欣慕浄土の善根」と仰っています。釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるための善ということです。

ここの部分の解釈を山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』から引用します。

『無量寿仏観経』を解釈せられた善導大師の御意見に依りて本経を考えて見るに、本経には顕の義と彰隠密の義の二面の意義がある。即ち一文に表裏の二義があるのである。彰は陰からあらはすこと、陰は顕に対して文の幽意を示し、密は如来の密義のこと。
(中略)
其の中、経の顕の義といふは、行の方面から云へば定善散善の諸善萬行をあらはしてあり、信の方面」から云へば上中下の三輩の機類に通ずる自力の三心を開説してあるのが夫である。『観経』一部を表面から見れば、この自力の信行のほかはない。然るに定善散善の二善、そして其の中の散善の内容たる三福九品の善根は、真実報土に往生する真因ではない。これ等、定善散善を修める機類は夫々根機が様々に分れてをるから、其の起す所の三心も各自の能力に応じて異ってゐる自力の三心であり、如来廻向の絶対他力の一心でない、相対有限の信である。即ち如来が特に方便を垂れ給ひて、自力修善に係ってゐる人々をして、浄土を欣慕せしめ給ふ方便の善根に過ぎないのである。されば本経一部の顕説は、他力の三心に引入せしめんがための方便たる定散二善であることが知られるのである。

ですから
「浄土の方便の善」=「欣慕浄土の善根」
です。あくまで自力修善に係ってゐる人々、つまり聖道門の人を浄土門へ導き入れるための方便ということです。

浄土門の人が善をして宿善となるものだと考えることは、大間違いです。

高森会長も、親鸞聖人の教えは『教行信証』によらなければならないと教えながら、『教行信証』の要門釈さえも知らないから、こんなデタラメの解釈をして平気でおれるのです。

mixiでも、「こうへい」氏は『一念多念証文』のこの御文を挙げて、浄土門の人にも善を勧められ、阿弥陀仏が宿善として下さると主張していますが、誤解も甚だしいです。

二善・三福は報土の真因にあらず

親鸞聖人が仰っていることがまるで理解されていません。報土の真因ではないが、獲信の因縁(宿善)になるといっているのだ、と反論がありそうですが、なりません。そんなことは、どこを探しても書かれてありません。

宿善の意味は
「親鸞会教義の誤り」宿善とは
の部分を詳しく読んでください。

高森会長は無理ですが、親鸞会の講師部員は『教行信証』を真面目に読んでから、人に教えを伝えるべきでしょう。
高森会長の著書を読んで得られるものは、貧と恥のみです。

mixiにおける三願転入の法論6

2010年4月9日

 

mixiでのやりとりで、19願の対機が聖道門の人である根拠として挙げられているのが、以下です。

教行信証』要門釈

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。 偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。 
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

梯實圓著『顕浄土方便化身土文類講讃』

 浄土門内の方便教を明かすについて、まず第十九願要門の意を明かし、次いで三経の陰顕を顕わし。最後に第二十願の意を釈されるが、その最初に方便教を説かねばならなかった仏意を明らかにされる。すなわち、釈尊の導きによって、真実に背いた外道を離れて聖道門に入ることができた者も、なおその自力修行の厳しさゆえに、真実をさとり得た者は極めて少なく、せっかく一度は外道を離れて仏道に入りながら、内心は外道から離れることができず、再び邪道に退転してしまう偽の仏弟子も甚だ多かった。そのような状況を憐れんで、釈尊は聖道門から浄土門へと導くために権仮方便の法門を説かねばならなかったというのである。 
(中略) 
 そこで釈尊は浄土の教門を開いて行かれる。まず最初に開顕されたのが福徳蔵といわれる定善、散善によって往生を願う諸行往生の法門であった。その経典が『無量寿仏観経』であった。『観経』の散善顕行縁には、世、戒、行の三福散善を指して、「三世諸仏の浄業正因なり」といわれているように、諸仏の成仏道であった。また定善は、真身観に「無量寿仏を見たてまつれば、すなわち十方無量の諸仏を見たてまつる。無量の諸仏を見たてまつることを得るがゆゑに、諸仏は現前に授記す」といわれているように、諸仏から成仏の授記を得るための「般舟三昧」の行であった。したがって定散諸善の行体は、聖道門の諸行と同じ此土入聖の行であった。そのような聖道門の行を浄土に往生するための行として転換する心がすでに述べたように「至心発願欲生」の三心であり、『観経』でいえば「至誠心、深心、回向発願心」の三心だったのである。こうして、聖道門の修行をそのまま往生の行に転換させ、浄土に生まれさせることによって、聖道門に行き詰まっている行者を浄土門へと誘引し救っていかれるのである。

山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』

然るに五濁の世に汚された群萌、即ち煩悩悪業の含識は、今や諸仏の大悲に育てられて、漸く九十五種の邪道の網を脱れ出でて、仏教に教える所の半字教、満字教、又は権教、実教等の法門を信受し修道するようになっても、真に其の教へに入る者は甚だ得難く、如実の修道者は甚だ稀である。之に反して仏徒といふは名ばかりにて其の実は偽者が非常に多く、内心空虚の者が甚だ多い。 
釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下された。

『選択本願念仏集』

釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、すなはちこれ弥陀の本願にあらざるゆゑなり。また念仏を付属する所以は、すなはちこれ弥陀の本願のゆゑなり。 いままた善導和尚、諸行を廃して念仏に帰する所以は、すなはち弥陀の本願たる上、またこれ釈尊の付属の行なり。ゆゑに知りぬ、諸行は機にあらず時を失す。念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。

『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也

『尊号真像銘文』

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

『平等覚経』17願(前半が『大経』17願、後半が18願)

我作佛時。令我名聞八方上下無數佛國。
諸佛各於弟子衆中。歎我功徳國土之善。
【諸天人民蠕動之類】聞我名字。皆悉踊躍。 
來生我國。不爾者我不作佛。

『平等覚経』18願(『大経』19願)

我作佛時。【諸佛國人民有作菩薩道者】。 
常念我淨潔心。壽終時我與不可計比丘衆。 
飛行迎之共在前立。即還生我國作阿惟越。
不爾者我不作佛

ここまでほぼ完璧と言える根拠を出されても、19願の対機は浄土門の人も含めていると主張しているのが、親鸞会講師部員らしき「こうへい」氏です。

チューリップ企画の法論を思い出しました。親鸞聖人のお言葉を、道理もへったくれもない解釈をして、それが正しいと言い張るのですからね。

さて、『平等覚経』が根拠として出されていますので少しだけ解説します。
浄土経典に詳しい方から訳を教えて頂きました。

『大無量寿経』18願の「十方衆生」=『平等覚経』17願の「諸天人民蠕動之類者
諸々の神々や人々やごそごそと這う虫の類

『大無量寿経』19願の「十方衆生」=『平等覚経』18願の「諸佛國人民有作菩薩道者
諸々の仏国土の菩薩の行を行う者

ここからも判りますが、明らかに『大経』18願と19願の「十方衆生」は違うのです。
『平等覚経』によれば、19願の「十方衆生」は聖道門の人です。

なお、もう一つの『大経』異訳本である『大阿弥陀経』では

『大阿弥陀経』4願(前半が『大経』17願、後半が18願)

使某作佛時。令我名字。皆聞八方
上下無央數佛國。皆令諸佛。各於比丘僧大
坐中。説我功徳國土之善。
【諸天人民。蜎飛蠕動之類】聞我名字。
莫不慈心歡喜踊躍者。皆令來生我國。
得是願乃作佛。不得是願終不作佛

『大阿弥陀経』7願(『大経』19願)

使某作佛時。令【八方上下。無央數佛國。
諸天人民。若善男子善女人。有作菩薩道。】
奉行六波羅蜜經。若作沙門不毀經戒。
斷愛欲齋戒清淨。一心念欲生我國。
晝夜不斷絶。若其人壽欲終時。
我即與諸菩薩阿羅漢。共飛行迎之。
即來生我國。則作阿惟越致菩薩。智慧勇猛。
得是願乃作佛。不得是願終不作佛

ここでも『大経』19願の対機に当るのが、「菩薩の行を行う人」、つまり聖道門の人となります。

法然上人、親鸞聖人が仰っていることと一致します。当たり前のことです。

しかし当たり前のことを当たり前のことと絶対に認めないのが、親鸞会です。

「こうへい」氏はこんなことを書いています。

釈尊や親鸞聖人、蓮如上人、覚如上人は、別格として、

それ以外の先哲にどんな解釈をされた方があったかは問題外です。

とんでもない話です。文底秘沈か秘密の法文を自分達が独占しているとでもいうのでしょうか。

最近の親鸞会では、お聖教を読ませずに、高森会長の著書を根拠に話がなされているそうです。判りますよね。

親鸞会は、年々土蔵秘事に類するものへと変貌しています。そのうちに親鸞聖人も否定することでしょう。

mixiにおける三願転入の法論5

2010年4月8日

 

当ブログの読者の方が、mixi親鸞会講師部員らしき人物と三願転入についての議論をされています。

親鸞聖人★ トピック 三願転入
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=51573620&comm_id=1770759

(※現在は削除されています)

私も見ていましたし、陰ながら応援しておりまして、関連するエントリーを書いてきました。

詳しい内容は、各自で御確認下さい。

現在問題になっているのが、18願の「十方衆生」と19願の「十方衆生」とは違うのかということです。
最近のエントリーを読まれた方ならばお判りかと思いますが、実は違います。

親鸞会では、同じ文字だから同じ意味と考えているようですが、親鸞聖人は違うと見られていたのです。

それが『教行信証』化土巻・要門釈の

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

であり、『尊号真像銘文』の

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

なのです。

19願の「十方衆生」は聖道門の人のことと親鸞聖人はみておられたのです。

実はこの内容は
「21世紀の浄土真宗を考える会」
生因三願の「十方衆生」についての考察
十方衆生とはいうものの…
にすでに書かれてあります。

生因三願の「十方衆生」についての考察
の方を紹介しておきます。

無量寿経(大無量寿経)の第18願、第19願、第20願の三願は生因の願と言われます。
これらの願の対機はいずれも「十方衆生」ですが、異訳本と比較すると、同じ「十方衆生」でも意味が異なることが分かります。

現在残っている完本は、サンスクリット本、漢訳5種、チベット訳の合計7種あります。
漢訳5種、チベット訳の6本の原本は失われています。
つまり、同じ原本から訳されたものではないですし、漢訳5種の原本は現存のサンスクリット本ではないということです。
『大阿弥陀経(仏説阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経)』と『仏説無量清浄平等覚経』は「初期無量寿経」と言われ、阿弥陀仏の本願が24です。
『無量寿経』『無量寿如来会』『仏説大乗無量寿荘厳経』および、サンスクリット本、チベット訳は「後期無量寿経」と言われます。本願の数は『無量寿経』『無量寿如来会』が48、『仏説大乗無量寿荘厳経』が36、サンスクリット本が47、チベット訳が49です。

さて、『大無量寿経』の生因三願がそれぞれどのように対応しているかということですが、
阿弥陀経の第5願ー平等覚経の第19願ー大無量寿経の第20願
阿弥陀経の第7願ー平等覚経の第18願ー大無量寿経の第19願
阿弥陀経の第4願ー平等覚経の第17願ー大無量寿経の第17願と第18願
の関係にあります。

そして大阿弥陀経と平等覚経の対機・往生の機根は

阿弥陀経の第5願 大阿弥陀経三輩段中の下輩生 前世作悪者
阿弥陀経の第7願 大阿弥陀経三輩段中の上輩生 出家の善男子善女人
阿弥陀経の第4願 前半(大無量寿経の第17願に相当)は諸仏、後半(同第18願)が前世作悪者

平等覚経の第19願 他方仏国の人民(下輩生・前世作悪者)
平等覚経の第18願 諸仏国の人民(上輩生・出家者)
平等覚経の第17願 大阿弥陀経の第4願と同じ

となっています。

阿弥陀経においては、第4願と第5願は関係が深いのですが、
平等覚経においては、第17願と第18願の関係は薄くなっています。
大無量寿経になると、第17願・第18願と第19願の関係はさらに希薄になります。

ちょっとややこしいですが、簡単に言うと、
・もともと、大無量寿経の第19願・第20願にあたる願文の対機は異なるものであった。
・大無量寿経の第18願は、第19願・第20願にあたる願文とは独立していた。大無量寿経で言えば第17願と密接な関係にあった。
・大無量寿経の対機が「十方衆生」と訳されるに伴い、第19願・第20願の対機も「十方衆生」と訳された。
・したがって、言葉は「十方衆生」と同じでも、意味は全く異なる。
・第19願・第20願では十方衆生が○○すると往生できると言われているのに対して、第18願では阿弥陀仏が十方衆生に向かって与えて往生させると言われている。
親鸞聖人はこれらの点などを見られて、第18願を真実願、第19願・第20願を方便願とされた。
となります。

mixiでは読者の方が『平等覚経』まで出されていまして、濃い内容となっていますが、対する親鸞会講師らしき人物は、御粗末な親鸞会教義そのままです。

mixiは、親鸞会の会員も勧誘目的で見ているそうですので、この議論も見ている可能性があります。それでもまだ親鸞会教義の御粗末さに気が付かないとすれば、相当に重症でしょう。

mixiにおける三願転入の法論4

2010年4月6日

 

大沼師の三願転入論を、自分の欲望を満たすために中途半端にパクリましたので、ヘンテコな教義が余計にヘンテコになりました。

それゆえ親鸞会の会員は、三願についての理解が歪です。三願を1セットのものと考えていますが、親鸞聖人は三願を別個のものと教えておられるのです。

「親鸞会教義の誤り」親鸞会は諸行往生13
より引用

18願、19願、20願は生因三願といわれます。衆生が浄土に往生する因について3通りあると親鸞聖人は解釈なされているのです。三願はそれぞれ独立したものということです。

生因三願と往生、『教行信証』の関係は以下の通りです。

18願──他力念仏往生(報土往生)──『教行信証』真仏土巻 
19願──自力諸行往生(化土往生)──『教行信証』化土巻 
20願──自力念仏往生(化土往生)──『教行信証』化土巻

また浄土三部経と生因三願の関係については

『大無量寿経』──18願意-他力念仏往生 
観無量寿経』──顕説(方便)19願意-自力諸行往生 
         └─隠彰(真実)18願意-他力念仏往生 
阿弥陀経』──顕説(方便)20願意-自力念仏往生 
        └─隠彰(真実)18願意-他力念仏往生

となります。

だから、方便の19願、20願を廃して真実の18願を立てよと真仮廃立を教えておられるのですが、親鸞会の会員は、18願に入るためには19願、20願を必ず通らなければならないとしか考えられないようです。

利井鮮妙著『宗要論題決擇編』には

四十八願の至要たる「重誓偈」に徴するに、名号流布を誓て諸行を誓はず、況んや六八願中多く聞名の得益を願ずと雖も諸行及び植諸徳本を誓はず。又直ちに生因三願について伺ふに五由あるべし。一つには信行前後の異、二つには信楽有無の異、三つには乃至有無の益、四つには得益定不の異、五つには唯除有無の異これなり。

とあります。
48の願を要約した「重誓偈」にも諸行・植諸徳本は説かれず、名号流布を強調され、聞名の益は説かれているが、諸行の益は説かれていない。
生因三願について5つの相違があるとして、「信行前後の異」、「信楽有無の異」、「乃至有無の益」、「得益定不の異」、「唯除有無の異」を挙げています。
この5つについて詳しく説明すると難しくなりますので、最も重要と思われる最後の「唯除有無の異」についてのみ説明します。
「唯除有無の異」とは、18願には「唯除五逆誹謗正法」とありますが、19・20願にはそれがありません。その相違をいったものです。
ところがそれがどんな意味を持つかを会員は考えたことなどないでしょう。実はここが重要なところなのです。

『尊号真像銘文』には、

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

親鸞聖人は仰っています。これは、「唯除五逆誹謗正法」という抑止のお言葉によって、抑止すべき五逆罪、謗法罪を造っている極悪人も含めた一切の衆生が18願の救いの対象になっていると親鸞聖人は教えられています。念の為申しますと、一切の衆生が五逆罪、謗法罪の者という意味ではありませんので、間違われないようにしてください。
一方で、19・20願にはこの抑止のお言葉がありませんので、抑止する必要のない善人のみを対象とされているということです。
つまり、三願には共通の「十方衆生」と誓いの対象が同じお言葉で表現されていても、その内容が異なっているのです。18願の「十方衆生」は文字通りすべての人が対象で漏れている人はありません。しかし、19・20願の「十方衆生」はすべての人の中で善人のみが対象ということであって、悪人は対象外なのです。

十方衆生」の意味だけ見ても、三願を1セットで考えるということ自体おかしなことなのですが、三願転入という概念が頭から離れない親鸞会の会員にとっては三願が別個というのは理解し難いことでしょう。

親鸞聖人が仰っておられるお言葉を素直にそのまま受けとることが大事です。高森フィルターを外して下さい。

mixiにおける三願転入の法論3

2010年4月4日

 

三願転入については、一昨日、大沼法龍師の言葉を紹介しましたが、『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』に書かれた三願転入の意味についても見ておきましょう。

  ◎(三三の法門)
 君達は学問の為の学問であって血の通うた、信仰に生きた学問は一寸もしては居ないではないか、祖師の求道を祖師の求道と眺めて、各自の実地の求道の手本には成ってはいないではないか。化土巻に
「是を以て愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ宗師の勧化によりて久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離れ、善本徳本の真門に廻入して偏に難思往生の心を発しき。然るに今特に方便の真門を出でて選択の願海に転入し、速に難思往生の心を離れて難思議往生を遂げんと欲す、果遂の誓良に由ある哉、ここに久しく願海に入りて深く仏恩を知れり、至徳を報謝せんが為に真宗の簡要を拡うて、恒常に不可思議の徳海を称念す、弥斯を喜愛し特に斯を頂戴するなり」
と実地に求道されて開発の境地に到る指針であり、無明の闇夜を照す燈明台ではないか、この源泉を尋ぬれば真仏土巻に「然るに願海に就きて真あり仮あり、是を以て復仏土に就きて真有り仮有り、選択本願の正因に由りて真仏土を成就せり 乃至 既に真仮皆是れ大悲の願海に酬報せり。故に知んぬ報仏土なりといふことを、良に仮の仏土の業因千差なれば土復応に千差なるべし、是を方便化身化土と名く、真仮を知らざるに由りて如来広大の恩徳を迷失す」と弥陀の本願に真仮あり、これを釈尊開設して三部経となし、一代の説教を八万の法蔵に述べて群生を教化し調機誘引して一切経を自力の出世本懐たる法華経に集中して演説の最中、悲泣雨涙の韋提の請に応じて第十九願開設の観経の説法となり、法が自力、機が自力の要門を説き、遂に定散を捨てて念仏に皈せしめ、次に第二十願開設の小経に運んで法が他力で機が自力の真門を説き、嫌貶開示して名号の超過を教うれども機執が去らず、最後に第十八願開設の大経に趣入せしめて法が他力、機が他力の弘願の座敷に乗せるには唯除逆謗と悪人の正機を照し出し、自力を浄尽して不思議の仏智を廻向する、名号法爾の徳として顕示して居らるるを、祖師は如来所以興出世、唯説弥陀本願海と言い、蓮師は「八万の法蔵をしるといふとも後世をしらざる人を愚者とす、たとひ一文不知の尼入道なりといふとも後世をしるを知者とすといへり」と言って、自力の出世本懐より他力の出世本懐に趣入でしめるのが仏祖の真意ではないか。
 然るに真宗の学者は頭だけ初めから第十八願に据り込んで、実地の求道をして居ないではないか、祖師の苦心された三三の法門は骨董化して学問の羅列になり、蓮師の雑行雑修自力の心をふり捨ては自分とは無関係で、はいの返事も向うからと助かった積りで死後を夢見て居るが、何んと恐しい堕落だろう、脈が上って居るから処置なしだ。畢竟感情に瞞され、自惚れに酔うて実地の求道を抜きにして居るから三願転入の真意を無視して居るのだ、実地に通って居ないから真仮の分斉も知らず、信一念の極意も諦得せず、頭は合点しても腹は流転するのだ、俗人は気に掛るから熱心に法の話をするが、坊主はてんで気に掛らないから阿呆の話でもして居るのだ。君達は第十八願の真似をして有難がって布教しているのだ、大沼は三願転入を根基として布教して居るのだ、これを異安心と言うのなら祖師も釈尊も弥陀も皆異安心ぞ、自分達の無安心を反省したらどうだ。

大沼師は三願転入をこの著書の中で、しきりと強調していますが、高森会長が言っていることと言葉は同じでも意味が違っています。
大沼師は、学問の為の学問をしていたという当時の勧学の無帰命安心を非難するために、信前信後のあることを三願転入で説明されているのです。最初から18願に入っている人はいない、親鸞聖人も18願に入られる前に、19願、20願にいたと告白なされているように、信前と信後の水際があることを言われているのです。19願、20願の行を勧められているのではありません。

高森会長も、それは判っているものと思われます。善の勧めを、宿善よりも強力な根拠として大沼師の三願転入論を途中から利用したのでしょう、大沼師の意図を無視して。

この著書の中でも大沼師は書いていますが、大沼師は自己の味わいとしてお聖教を解釈しているところが相当にあります。ですから大沼師の教えている通りに話をしていれば、一貫性もあったのでしょうが、高森会長が名利の為に利用しただけですので、高森会長の教えは大沼師とも違っていますし、ましてや親鸞聖人の教えとは天と地程異なっているのです。

親鸞会の会員は、高森会長のいう「三願転入の教え」の正体を凝視して欲しいものです。

mixiにおける三願転入の法論2

2010年4月3日

 

昨日紹介した大沼法龍師の『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』の内容を知りたいと言われる方がありました。読まれればわかりますが、高森会長の『会報』と瓜二つです。言い回しまでそっくりです。本願寺を批判しているポイントも同じです、というよりも大沼師の真似をすれば、本願寺が困るという計算があったものと思います。

高森会長の主張する「三願転入の教え」や本願文のヘンテコ解釈の原点は大沼師にあることは疑いようのないことです。大沼師がおかしいということではなく、大沼師の意図を汲み取れない高森会長の能力の低さが、トンデモ教義を創作する結果となったようです。
『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』の内容を一部紹介します。

  ◎(第十八願の真似)
 浄土真宗と言う狭い漬物桶に押込められて居る佐々木、小山、大江の勧学は六字を通しての仏法の大海を知らないのだ、第十八願の一本槍で進まうとして、他力そ唯ぞ其儘ぞ出来上った事を聞け、我機に用事はないと無帰命安心を平気で教えて居るがそれでよいか、三業安心の余波を受けて、己を抜にして槍放しを無我のように思い、無努力を他力廻向のように心得て居るがそれでよいか、真宗が衰滅して行く原因が何処に有るか御承知か、新興宗教が潮の如く漫延して行くのは既成宗教が骨董化して時代を救い切らない事を御承知ないのか、新興宗教を迷信じゃ邪教じゃ、濁り水を飲むな、腐り水を飲むなと攻撃するよりは、こちらに清いな水が有るから存分飲みなさいと何故汲み上げて飲まさないのだ、誰も濁水の飲みたい者は居ないのだ、戦後思想が混乱して乾き切って居るから清濁の判断がつかないのだ、無上の妙法だ、無上宝珠の清水だと誇大な広告はして居るけれども、自分は泥酔無能で一句の法門も説き切らず、たまたま大音声で説教しても、何時の事かと思えば心だ先の夢物語りで現在が救われるか、衰微するのが当然と言う事が当局にはまだ眼が覚めないのか。
 本願寺の総長を始め勧学のお歴歴から頭の切り替えをやらなければ真宗の復興は望めない。君達は第十八願や成就の文を有難がって見て居るのであって十八願の身になる事を忘れて居るのだ、至心信楽の文に陶酔し、至心に廻向せしめ給えりに酩酊して麻痺状態となり、阿片やヒロポンに中毒されて萎靡沈滞して活動能力を失うて居るのだ、第十八願の文を見て自分は至心信楽己を忘れて乃至十念の称名を称えて居るから死にさえすれば往生に間違いはない、仏様が若し生れささずんば正覚を取らずと仰せられたのが、既に十劫の昔に正覚を成就して居らるるから十劫の昔に助かって居るのだと安心して居るが、君達は文面を見て裏面を読んで居ないのだ。唯除五逆誹謗正法とは誰の事かい、勧学だと威張って居る君達の事だぞ、除かれて居るとも知らずにのさばりかえって居るが、それだから開発の一念を知らないのだ、若不生者不取正覚とは生れさすとは死後の事しか知らないのだろう、心命終を忘れたか、君の逆謗の屍を今心命終ささなければ正覚を投げ出すぞと言うことだよ。成就の文にしても至心に廻向して貰ったか、不可称不可説不可思議の功徳は行者の身に満てりと有るが、三千世界の果報者は自分一人と言う満足が有るか、観念の遊戯だけして居るのだからそんなはっきりした事は有るまい、何を廻向されたか、上に向えば法体の大行、下に向えば当果決定、誰が頂くのだ、諸有衆生、その腹底は、唯除逆謗、おいおい君達、素直に聞いて居ればよいと言うような対岸の火事のような話ではないぞ、君が邪見驕慢の逆謗の屍ではないか、その機に久遠劫から付き纏い、至心に廻向し給いいて聞即信の一念に法体の大行を全領し同時に住不退転の当果を決定さして頂くのだが、文面を読んで眺めて通って居るのだから何とも有るまい、これが実地に諦得出来たのなら信前信後の水際鮮かに今こそ明らかに知られたりと大慶喜せずには居られないのだ、その初起の一念を信一念と名前を付けるのだ、時尅に何の関係が有るのだ、味に用事が有るのだ、本当に大満足の出来た人なら実時は判らないが仮時ならあの時であったと言えるのだ、君達にはあの時もこの時もないのだ、御経やお聖教を読んで通って見て感じただけだから自分の実機とは無関係だから観念の遊戯に過ぎないのだ、勧学で有りながら実地の体験がないのだから、晴れたのやら暮れたのやら、水際もなければ角目もない、……

親鸞会で昔よく聞いた信前信後の水際のところです。ここを覚えていれば、昔の高森会長の様な説法は信心に関係なく誰でもできると思います。
ネタばらしをすれば、無二の善知識もその辺の俗人以下だったとなります。

mixiにおける三願転入の法論1

2010年4月2日

 

「三願転入の教え」と高森会長はいいますが、そもそも「三願転入の教え」とは何でしょうか?

三願転入について仰ったのは、親鸞聖人だけです。覚如上人も、蓮如上人も仰っていません。親鸞聖人も『教行信証』化土巻にのみ仰っただけで、他のところでは仰っていません。

善知識方の御著書を読んだことのない高森会長は、そんなことはもともと関係ないのでしょう。

三願転入が親鸞聖人の教えの根基

と高森会長はいっていますが、その出典が判明しました。
大沼法龍著『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』

大沼は三願転入を根基として布教している居るのだ

とあります。本のタイトルも、どこかで見たようなものです。本願寺批判の内容までもそっくりです。昭和30年に大沼師が本願寺を批判して著したものです。

それは兎も角として、大沼師が本願寺批判の際に強調していた三願転入が真宗の常識のように装って「三願転入の教え」としてしまうところが、姑息な高森会長らしいです。

しかし、三願転入とはいいながら親鸞会で説いていることは19願のことだけです。18願に入るためには万人共通で19願から始めなければならないというものです。

昨日も述べましたが、親鸞聖人は19願を、方便化土への往生を誓われた願と、聖道門の人を浄土門へ誘引させる願という二面でみられていました。親鸞会の主張とはかなりの隔たりがあります。

では法然上人は19願をどのようにみられていたのでしょうか。

『漢語灯録』には、

上の本願の願成就文に、但念仏を明すといえども、上の来迎の願等の中、及び次の三輩の文、助念往生、諸行往生を明かせり

とあります。「来迎の願」とは19願のことであり、19願を『大無量寿経』三輩段にある諸行往生を誓われた願とみられていました。
また『西方指南抄』には、

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしめむと也

とありまして、聖道門の人を浄土門へ誘引させるという親鸞聖人の19願観の元になったものと思われます。

法然上人にも三願転入という教えはもちろんありません。

大沼師の著書を参考にする程度の学識で本願寺を批判し、真宗の教義が誰よりも判った顔をしている無恥の善知識様は、いつまで迷走を続けるつもりでしょうか?

批判している方が恥ずかしくなります。

はじめに

2010年3月より、mixiの「★親鸞聖人★」コミュニティ内の三願転入トピックで、こうへい氏(親鸞会講師部員で、途中から高森会長が直接指導)と、親鸞会退会者との間で、法論がなされました。

結果は、親鸞会側の完全敗北で、逃亡の末にこのトピックごと削除されました。

つまり、法論自体を削除しようとしたのです。

その時の形跡は至る所に残されていますが、この親鸞会退会者を支援していた「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」というブログにある関連エントリーを、ここに抽出しました。

親鸞会にとっては、実質的にも形式的にも大惨敗の法論です。その内容をまとめた

親鸞会の邪義を正す
”三願転入の教え”の誤り1

も併せてお読みください。