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親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より

浄土真宗親鸞会が、退会者との法論に惨敗逃亡した記録 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」より抜粋

mixiにおける三願転入の法論35

2010年7月28日

 

こうへい氏には失望させられてばかりですが、今回も逃亡でしょう。こうへい氏が無安心、異安心であることは以下の発言でも明らかです。

”どんな小さな善もすべて獲信の因縁であった” 
という心は、廃るのではなく、反対で、 
一念で救われてからずっとあります。

こんなことを堂々と言っているのですから、情けないものです。親鸞会から発行されている書籍以外に読んだことが無いのでしょう。高森会長が善知識方の御著書を読んだことがないから、仕方がないことです。
mixiの中で、いろいろと指摘されていますが、別の根拠を挙げれば、

『口伝鈔』には

上人[親鸞]仰せにのたまはく、
「某はまつたく善もほしからず、また悪もおそれなし。
善のほしからざるゆゑは、弥陀の本願を信受するにまされる善なきがゆゑに。悪のおそれなきといふは、弥陀の本願をさまたぐる悪なきがゆゑに。
しかるに世の人みなおもへらく、善根を具足せずんば、たとひ念仏すといふとも往生すべからずと。またたとひ念仏すといふとも、悪業深重ならば往生すべからずと。
このおもひ、ともにはなはだしかるべからず。
もし悪業をこころにまかせてとどめ、善根をおもひのままにそなへて生死を出離し浄土に往生すべくは、あながちに本願を信知せずともなにの不足かあらん。
そのこといづれもこころにまかせざるによりて、悪業をばおそれながらすなはちおこし、善根をばあらませどもうることあたはざる凡夫なり。
かかるあさましき三毒具足の悪機として、われと出離にみちたえたる機を摂取したまはんための五劫思惟の本願なるがゆゑに、ただ仰ぎて仏智を信受するにしかず。
しかるに善機の念仏するをば決定往生とおもひ、悪人の念仏するをば往生不定と疑ふ。
本願の規模ここに失し、自身の悪機たることをしらざるになる。
おほよそ凡夫引接の無縁の慈悲をもつて修因感果したまへる別願所成の報仏報土へ五乗ひとしく入ることは、諸仏いまだおこさざる超世不思議の願なれば、たとひ読誦大乗・解第一義の善機たりといふとも、おのれが生得の善ばかりをもつてその土に往生することかなふべからず。
また悪業はもとよりもろもろの仏法にすてらるるところなれば、悪機また悪をつのりとしてその土へのぞむべきにあらず。

 しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。
さればこそ、悪もおそろしからずともいひ善もほしからずとはいへ」。

(石田瑞磨著『親鸞全集』の現代語訳)
聖人が仰せられたことには、
「わたしは決して、善を行ないたいとも思わないし、また悪を犯すことも恐れはしない。
善を行いたいとも思わないわけは、阿弥陀仏の本願を頂いて信ずる以上に勝れている善はないからであり、悪を恐れないというのは、阿弥陀仏の本願のはたらきをさまたげる悪は無いからである。
ところが世間のひとはつねに「善のたねをたくわえなければ、たとい念仏を称えるとしても、浄土に生れることはできない」と思い、また「たとい念仏を称えるとしても、罪悪が重ければ、浄土に生れることはできない」と思っている。
しかし、この考えは二つともはなはだしく間違っている。
もし、心のままに悪事をとどめ、思いどおりに善のたねをそなえて、この生死をくりかえす迷いから逃れ出て、浄土に生れることができるときは、強いて阿弥陀仏の本願を信じ、納得しなくても、なんの不足があろうか。
しかしこれがいずれも意のままにならないために、罪を恐れながらも、恐れる心のはしからこれを犯し、善のたねをたくわえたいと願っても、そうすることができない愚かなものなのである。
こうした、貪りと怒りと心の暗い愚かさとにまみれ、罪悪を犯す素質だけしかもたない、自分の力では迷いから逃れ出る途の絶えた素質のひとを救い取るために、五劫という永いあいだ、熟思に熟思を重ねた末、たてられた本願であるから、ただ仰いで、この阿弥陀仏の智恵を信ずるよりほかにはない。
ところが、善を行える素質をもったものが念仏を称えるのを見ると、かならず浄土に生れることができると思い、悪人が念仏するのを見ると、生れるとはかぎらないと疑うから、
ここに本願の面目は失われ、また自分が悪しか行えないことが素質のものであることを知らないで終わるのである。
おおよそ、愚かなものを救おうとする絶対平等の慈悲をもって、修行の結果、その目的のとおりに、成就することができた真実の仏の浄土に、どんな教えを奉ずるものもすべて等しく導きいれようという阿弥陀仏の誓いは、阿弥陀仏以外の諸仏のいまだかつておこしたことのない、どのような世界にもなかった、思惟を超えた誓いであるから、たといつねに大乗の経典を読み、勝れた教えを理解することができる素質のよいひとであっても、生れつきそなわっている善だけで、その浄土に生れることは許されない。
また悪い行為は、もともと仏の教えからは捨てられるものであるから、罪悪を犯す素質だけしかもたないものが悪をますます重ねることによって、その浄土に行くというものでもない。

こうしたわけだから、生れつき素質としてそなえている善・悪のいずれも、真実の浄土に生れるための好条件にも悪条件にもならないということは、もちろんである。
したがって、この善・悪の素質をそなえたままで、与えられたところの阿弥陀仏の智恵をますますはげしくたのむよりほかに、愚かなものにどうして浄土に生れるための好条件があるだろうか。あるはずがないのである。
だからこそ、「悪を犯すことも恐れはしない」ともいい、「善を行いたいとも思わない」ともいったのである。」

親鸞聖人のお言葉として覚如上人が紹介しておられます。
親鸞会の考えは

善根を具足せずんば、たとひ念仏すといふとも往生すべからずと。またたとひ念仏すといふとも、悪業深重ならば往生すべからずと。

これでしょう。善が間に合わないと教えてはいますが、善をせずしては救われないというその心は、これです。それを親鸞聖人は厳しく戒めておられます。

このおもひ、ともにはなはだしかるべからず。

親鸞会では

悪業をばおそれながらすなはちおこし、善根をばあらませどもうることあたはざる凡夫なり。

この部分だけ取り出して教えていますが、こんな凡夫であるから、五劫の思惟によって、善悪関係なく救う本願を建てられたのです。それなのに救われるのに、「善をせよ」というのは、阿弥陀仏の五劫の思惟を無駄にする教えです。

”どんな小さな善もすべて獲信の因縁であった”

しかしこれは、酷いです。真宗教義を根本から覆すものであって、読み流すことのできない邪説です。

『口伝鈔』には別に

たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。

と仰っています。これを読まれれば、より邪義が明らかになります。

たとえ諸善を修し、善根をたくわえるといっても、往生のもといとはならないのです。

しかし、こんな明確な間違いに気が付かないのでしょうか?

こうへい氏はかつて、

親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の仰ることこそ、 
浄土真宗か否かの物差しであり、

と言っていましたが、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の仰ることを物差しとすれば、親鸞会とこうへい氏は、浄土真宗ではないと断定されてしまいました。

今更のことではないですけど。