親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より

浄土真宗親鸞会が、退会者との法論に惨敗逃亡した記録 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」より抜粋

mixiにおける三願転入の法論34

2010年7月26日

 

mixiで、こうへい氏は煽られて三願転入の議論を再開したのかと思えば、悪口雑言の限りを尽くして、質問を無視して親鸞会流雑行の説明を始めました。
何1つ答えられないから、それしかできないことは判っていましたが、筋書き通りで笑えます。
それにしても、ここまで人格が曲がってしまうと修正は不可能ではないでしょうか。

なお、雑行の解説は、
元会員から見た浄土真宗親鸞会
にありますので、そちらを御覧下さい。

さて、前回は「念仏諸善比挍対論」について書きましたが、あの続きがあります。

『教行信証』行巻

また機について対論するに、信疑対、善悪対、正邪対、是非対、実虚対、真偽対、浄穢対、利鈍対、奢促対、豪賤対、明闇対あり。

この義かくのごとし。しかるに一乗海の機を案ずるに、金剛の信心は絶対不二の機なり、知るべし。

(現代語訳)
また機について、念仏の機と諸善の機とを比較し、対論すると、次のようになります。 
信疑対、念仏者は本願を信じているが、諸善の人は疑っている。 
善悪対、念仏者は名号の大善を領受しているから善人であり、諸善の人は雉毒の善しかないから悪人と貶称される。 
正邪対、念仏者は正定聚の機であり、諸善の人は邪定聚の機である。 
是非村、念仏者は仏意にかなうから是であり、諸善の人は仏意にかなわないから非である。 
実虚対、念仏者は仏の真実心を得ているから実といい、諸善の人は自力虚偽の人であるから虚という。 
真偽対、念仏者は真実、諸善の人は虚偽であるから、真といい、偽という。 
浄穢対、念仏者は浄心を得ているから浄といい、諸善の人は疑濁の人であるから穢という。 
利鈍対、念仏者は仏智を得ているから利根であり、諸善の人は仏智を得ていないから鈍根である。 
奢促対、諸善の人の成仏はおそいから奢といい、念仏者の成仏はすみやかであるから促という。 
豪賤対、念仏者は名号の功徳を得ているから豪富であり、諸善の人は大功徳を失っているから貧賤である。 
明闇対、念仏者は仏智を得て無明を破られているから明であり、諸善の人は無明の闇に閉ざされているから闇である。 
 このような十一対が成立します。以上のことから、本願一乗海である念仏を疑いなく受けいれている一乗海の機を考えてみると、その体が仏智であるような金剛の信心は比較を絶した絶対不二の機であることがわかります。

この諸善の人を親鸞会会員と置き換えてみれば、念仏者との違いがよく判ります。

奢促対、諸善の人の成仏はおそいから奢といい、念仏者の成仏はすみやかであるから促という。

これは、前回の

径迂対、念仏はさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。 
捷遅対、念仏は早くさとりに至る道であり、諸善は遅い道である。

と併せて、講師試験問題

「30年聞いても助からなかった、50年求めても獲られなかったものが此処にきて求まった」と放言する者がいるが、これらの者と次元の異なる親鸞聖人の流転の告白とその根拠を書け。

ここからも、親鸞会は真宗とは明らかに異なった教義であることが判ります。

高森会長、こうへい氏の言動を見てみると、講師試験最初の問題である十善が口先だけであることがよく判ります。
参考までに十善とは、

不殺生・不偸盗・不邪淫 
不妄語・不綺語・不悪口・不両舌 
不貪欲(不慳貪)・不瞋恚・不邪見

です。せめて十善に努めていれば、ここまで非難されることは無かったのでしょうが、十悪、五逆、謗法の限りを尽くしていては親鸞会が消滅しても、非難され続けるでしょう。