親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より

浄土真宗親鸞会が、退会者との法論に惨敗逃亡した記録 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」より抜粋

mixiにおける三願転入の法論33

2010年6月30日

 

観無量寿経』には、定散二善念仏とが説かれています。五逆・十悪の「極重の悪人」に対して説かれた行は、念仏だけです。「他の方便なし」です。誰が読んでも明らかなことです。
しかし、「極重の悪人」が念仏だけで往生できるということが、聖道門の学僧達には到底受け入れられない教えであったので、聖道門では念仏が方便で、定散二善が真実と理解したのです。それを善導大師が『観無量寿経疏』で論破され、法然上人が更に、

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く

諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く

とまで仰ったことに聖道門の学僧達が猛反発して、承元の法難が起きたという経緯があります。
それに対して親鸞聖人が反論されたのが『教行信証』です。
念仏が真実で、定散二善が方便であることを説明されているのが化土巻です。
何回も出していますが、要門釈の結論として仰った

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

親鸞聖人の教えのすべてです。もともと『往生要集』では

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

となっていまして、浄土門の通常の解釈です。そこに親鸞聖人は「定散の諸機」を加えられているのです。定散二善が真実だと思って行じている人も、よくよく自己を見つめれば「極重の悪人」であるから、「ただ弥陀を称せよ」が真実であるぞ、と仰っているのです。

要門釈の最初に、外道から聖道門、聖道門から要門、定散二善へと誘引されることを

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

と仰っています。外道から聖道門に入っても、聖道門の修行を断念する人が多いので、「ここをもつて」、聖道門の人を浄土門に導くために釈尊は定散二善を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられたと仰っているのです。19願は、浄土門にさえ入っていない聖道門の人をも導かれますから、「あまねく諸有海を化したまふ」なのです。「極重の悪人」を19願に導くという意味になる訳がないです。

親鸞会で言っているように、我々凡夫が「定散の諸機」と自惚れているから「極重の悪人」と知らさせるために19願を建てられ、諸善を勧められている、などという解釈は、浄土仏教の歴史を考えれば、成立し得ません。全く逆です。親鸞聖人が自惚れていると仰ったのは、念仏を方便と見下している聖道門の人であり、19願に拘る「定散の諸機」のことです。化土巻の要門釈だけを最初から最後まで読めば判ることです。
親鸞会は完璧な断章取義で、本から末までお聖教を読むことがないから判らないだけです。

以上のことを踏まえれば、親鸞会が、親鸞聖人が善を勧めた根拠と勘違いしている『一念多念証文』の

しかればこれを諸仏出世の直説と申すなり。おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。 
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

のお言葉も、要門釈と同じ内容であることが判るでしょう。「八万四千の法門」である聖道門の人を19願に誘い入れ、聖道門の人をも18願に入れる権仮方便の要門について、「浄土の方便の善」「浄土方便の要門」と仰っているのです。

それを親鸞聖人の体験として仰ったのが三願転入の文です。19願力によって、聖道門から浄土門に入り、18願に転入させて頂いたことを告白なされているのです。
そして三願転入の文の直後に仰ったのが、

まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。

です。聖道門は、釈尊在世中と正法の人のための教えであるから、像法・末法・法滅の人は聖道門に”迷うな”と仰っているのです。そして、聖道門の人が重視する19願は、聖道門の人を浄土門に導くためのものであることを明らかにされているのです。19願も20願も方便だから、真実18願を願いなさい、が化土巻の大意です。

略典と呼ばれる『浄土文類聚鈔』では、化土巻が省略されています。化土巻が誰のために、どんな目的で書かれたものであるか、これでお判り頂けるでしょう。

教行信証』全体どころか、化土巻の要門釈さえ読んだことのない親鸞会のトップから講師部員まで、矛盾点を突かれるとすぐに答えられなくなるのは、断章取義の典型だからです。

外部向けのmixiや某ブログでも、「十方衆生」「あまねく諸有海」「もろもろの衆生」とあるから、浄土門の人も19願から始めなければならないんだ、と虚しい主張をしてきましたが、今は外部に向けてデタラメ教義を発信することさえ断念して、内輪でのみこそこそ言い続けるだけです。

一方で、真宗史上では親鸞会は物笑いの種となって長く語り継がれていくことでしょう。
教団名から、「浄土真宗」「親鸞」を一刻も早く外した方が、高森会か高森教にとってもよいことと思いますよ。