親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より

浄土真宗親鸞会が、退会者との法論に惨敗逃亡した記録 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」より抜粋

mixiにおける三願転入の法論31

2010年6月25日

 

教行信証』信巻・別序のお言葉についての解説を続けます。

しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し。

このお言葉は、親鸞会でも時々使われてきましたので、親鸞会出身者ならば御存知でしょう。
自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す」は、聖道門の人が浄土門の教えを謗っていることと一般的には解釈されますが、浄土門の人でもこのような考えに陥っている人があります。
定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し」は、定善散善の自力に執心して、他力信心を獲ていないことです。
覚如上人は『報恩講式』の中で

念仏修行の人これ多しといへども、専修専念の輩はなはだ稀なり、あるいは自性唯心に沈みて徒に浄土の真証を貶め、あるいは定散の自心に迷ひてあたかも金剛の真信に闇し。

と仰り、蓮如上人は『御文章』2帖目第15通に

そもそも、日本において浄土宗の家々をたてて西山・鎮西・九品・長楽寺とて、そのほかあまたにわかれたり。これすなはち法然聖人のすすめたまふところの義は一途なりといへども、あるいは聖道門にてありし人々の、聖人(源空)へまゐりて浄土の法門を聴聞したまふに、うつくしくその理耳にとどまらざるによりて、わが本宗のこころをいまだすてやらずして、かへりてそれを浄土宗にひきいれんとせしによりて、その不同これあり。

と仰っています。
善知識方が浄土門内の邪義として仰ったのは、親鸞会の”三願転入の教え”そのものです。聖道門の論理で善を勧めて、「定散の自心に迷」わせて、「金剛の真信に昏し」となっていることに気が付かないのです。

前回述べたように、善巧方便と権仮方便の意味も全く判らないから、自分達が邪義と思えないのでしょう。
韋提希に対して、釈尊は定散二善を勧められているではないか、と親鸞会では幼稚な反論をしてきますが、そもそもそれが勘違いであり、高森会長に騙されているのです。

観無量寿経』を見てみましょう。

ときに韋提希、仏にまうしてまうさく、「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」と。 

(現代語訳)
そのとき韋提希が釈尊に申しあげた。「世尊、わたしは今、仏のお力によってその世界を見ることができます。でも、世尊が世を去られた後の世の人々は、さまざまな悪い行いをして善い行いをすることがなく、多く苦しみに責められることでしょう。そういう人たちは、いったいどうすれば阿弥陀仏の極楽世界を見ることができるでしょうか」

韋提希は、釈尊入滅後の人のために、極楽を見る方法について尋ねたので、その請いに釈尊が応じられただけです。
そのことを『玄義分』には、

問ひていはく、定散二善はたれの致請による。 
答へていはく、定善の一門は韋提の致請にして、散善の一門はこれ仏の自説なり。 


(現代語訳)
問うていう。定・散の二善は誰の請いに因るのか。
答えていう。定善の一門は韋提が請うたのであり、散善の一門は仏がみずからの思召しでとかれたのである。

とあります。また

たまたま韋提、請を致して、「われいま安楽に往生せんと楽欲す。ただ願はくは如来、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」 
といふによりて、しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。

(現代語訳)
たまたま韋提が釈迦仏に願って「わたしは今、安楽浄土に往生したいと望みます。ただ願わくは如来、わたしに定善の観法を教えてください」といったことにより、そこで、娑婆の教化の主である釈迦仏は、その韋提の請いをもととして広く浄土の要門を開かれ、安楽の能化の人である阿弥陀仏は、ならびのない弘願を顕された。

とも善導大師は教えられています。釈尊が定散二善を説かれ、阿弥陀仏は弘願18願を顕されたのです。

釈尊は韋提希に定散二善を説かれましたが、実践するように仰っていませんし、韋提希は定散二善をしていません。

この『観無量寿経』に説かれていることを解説されたのが『教行信証』化土巻・隠顕釈の

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。 
顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。 
すなはちこれ顕の義なり。彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。

(現代語訳) 
善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密の義がある。 
その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義である。 
その彰とは、阿弥陀仏の弘願を彰すものであり、すべてのものが等しく往生する他力の一心を説きあらわしている。提婆達多や阿闍世のおこした悪事を縁として、浄土の教えを説くという、釈尊がこの世にお出ましになった本意を彰し、韋提希がとくに阿弥陀仏の浄土を選んだ真意を因として、阿弥陀仏の大いなる慈悲の本願を説き明かされたのである。これが『観無量寿経』の底に流れる隠彰の義である。

観無量寿経』の隠顕釈についても知らないのでしょう。それで善知識方の嘆きである「定散の自心に迷ひて」を他人事としか考えられないから、親鸞会の会員は「金剛の真信に昏し」となっているのです。