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親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より

浄土真宗親鸞会が、退会者との法論に惨敗逃亡した記録 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」より抜粋

mixiにおける三願転入の法論30

2010年6月23日

 

mixiでこうへい氏が、

未信の人が、18願だけで導かれるということですか? 
19願力も、20願力も不要と言われるのでしょうか? 
もしそうでしたら、19願力や20願力以外の、 
18願力に方便(信前)もある、ということになりますが、 
そのようなことを、親鸞聖人はどこにおっしゃっているのでしょう?

と自信一杯にコメントしたり、また某ブログでは

方便がなくても、
18願を素直に聞ける自分だと、
スゴイ自惚れのド天井にあるのだ。

未信の者が、18願だけで救われるなら、
18願力に、真仮があるとでもいうのか。

珍説だ。

などという珍説を、どうだといわんばかりに上から目線で書いていますが、恥ずかしいことを書いたという自覚のないことが驚きです。

極重の悪人は、他の方便なし(往生要集)

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ
       (高僧和讃

極重悪人唯称仏(正信偈

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。(正信偈大意)

上記のお言葉は、「極重の悪人」は18願1つでよい、19願・20願の権仮方便は不要であるということを明白に仰った根拠です。つまり”三願転入の教え”なるものを否定されているのです。

また

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。(教行信証

このお言葉は、要門釈の結論として仰ったものですから、「定散の諸機」に対しても18願1つということを教えられているのです。

上記の根拠を出したら、何か言い訳か屁理屈を言ってくるのかと期待していましたが、2人とも黙ってしまい、未だに反応がありません。

これまで方便について何度も解説してきましたし、方便の意味が判っていないと何度も忠告しているのに、進歩が全く無いです。

教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』の補註にあるものを今回は紹介しておきます。

 方便とは、仏が衆生を救済するときに用いられるたくみな方法をいう。その中に真実と権仮とがある。真実の方便とは、仏の本意にかなって用いられる教化の方法で、随自意の法門をいう。それは、大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度されるというので、善巧方便ともいう。阿弥陀仏を方便法身というときの方便がそれである。 
 権仮方便とは、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受けとれないから、その機に応じて、仮に暫く誘引のために用いられる程度の低い教えをいう。機が熟すれば真実の法門に入らしめて、権仮の法門は還って廃せられる。このように暫く用いるが、後には還って廃するような随他意の法門を権仮方便という。「方便化身土」といわれるときの方便がそれである。 
 親鸞聖人は四十八願の中で、往生の因を誓われた第十八願、第十九願、第二十願のうち第十八願のみが真実願であり、第十九願、第二十願は方便願であるとされた。第十八願は、他力回向の行信によって、真実報土の果を得しめられる真実願であり、第十九願は、自力諸行によって往生を願うものを、臨終に来迎して方便化土に往生せしめることを誓われたものであり、第二十願は、自力念仏によって往生を願うものを、方便化土に往生せしめることを誓われた方便願であるといわれるのである。そしてこの三願は、聖道門の機を浄土門に誘うために第十九願が、自力諸行の機を念仏の法門に導き、さらにその自力心を捨てしめて第十八願の他力念仏往生の法門に引き入れるために第二十願が誓われたとされている。

この程度の知識を最低限持っていなければ、親鸞聖人の御著書を読んでもチンプンカンプンでしょう。

前回の続きで、『教行信証』信巻・別序の

真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。

のお言葉は、まさに親鸞会の基本的な誤りを正されたものです。釈尊は善巧方便をもって真実信心を明らかにされたのであって、権仮方便をもってではありません。

高僧和讃』善導讃

釈迦・弥陀は慈悲の父母
 種々に善巧方便し
 われらが無上の信心を
 発起せしめたまひけり

も、同様のことを仰っています。
蓮如上人御一代記聞書』にも、

一 蓮如上人仰せられ候ふ。方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふと[云々]。

とあります。揚げ足とりをしたがる人のために少し解説しておきますと、「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」の「方便」は「廃立の義」ですから、捨てるべき権仮方便のことです。最後の文は文字通り、「善巧方便」のことです。「真実の信」は、「善巧方便によりて」うるのであって、「権仮方便によりて」ではありません。

以上のことをまとめて判りやすく言えば、親鸞聖人は18願1つで救われるのだと、繰り返し繰り返し教えられているのですが、絶対他力18願での往生をとても信じられない無宿善の機(未熟の機)がいますので、そんな機に対しては、権仮方便をもって18願での往生を願わせるところまで導かれるのです。親鸞聖人の教えを信じて、18願での往生を願う宿善の機に対しては、善巧方便をもって済度されるのです。

親鸞会では、自惚れ自惚れとうるさいのですが、18願だけでは不足だから19願・20願を加えなければならないと思うことを自惚れというのです。

この善巧方便を具体的に描かれたのが、『教行信証』信巻末にある阿闍世の物語です。一見すれば、略されてもよいように思われる部分までも、事細かに引文されています。実に『教行信証』全体の1割も費やされて、親鸞聖人は何を教えられたかったのでしょうか。それは衆生が善巧方便によって導かれることを示されると共に、五逆罪を犯した極悪人をも洩らさず、普く救いたもう本願であることを親鸞聖人が明らかにされるためであったのです。

その概要は
「親鸞会教義の誤り」
一切衆生は必堕無間なのか4

にありますので、読まれるとよいでしょう。

釈尊は阿闍世に対して、権仮方便をもって導かれたのではありません。高森会長は『教行信証』を読んだことがないから、内容を知らないのでしょうが、そんな無知な人物の妄想に付き合う必要はありません。

方便の内容さえ全く理解できない人を、善知識だとか、真実信心の人だとか、言っていることが恥ずかしくないのでしょうか。