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親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より

浄土真宗親鸞会が、退会者との法論に惨敗逃亡した記録 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」より抜粋

mixiにおける三願転入の法論29

2010年5月23日

 

昨日要門釈の結論として親鸞聖人が仰った

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

について、源信僧都の『往生要集』との比較をして少し述べました。
山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』での解説も紹介しましたが、断章取義の大好きな人のために補足説明をしておきます。

源信僧都は、

極重の悪人は、他の方便なし。

と仰っています。

三願転入の議論のまとめ

のところでも書きましたが、19願の「十方衆生」には、悪人は含まれていません。ここで言われている「極重の悪人」とは、下々品の機のことです。ですから源信僧都のお言葉は、「極重の悪人」には19願の定善散善はできるものではないから、19願の方便は不要であることを教えられたのです。逆の言い方をすれば、善人には19願の方便が必要と仰っていることになるでしょう。

ところが親鸞聖人は源信僧都のお言葉を変えて仰っています。

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

19願の対機である「定散の諸機」も「極重悪人」と親鸞聖人は見られたのです。
要門釈の最初に

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。 偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。 
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

と、親鸞聖人は19願を聖道門の人を誘引するための願と仰っていますが、聖道門から19願に入った「定散の諸機」に対してさえも、19願の方便を勧められず、「極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり」なのです。
定散の諸機」も「極重悪人」であるから、18願他力念仏だけを勧められているのです。
更にこの後に「濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり」と結んでおられます。

山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』には、このところを、

「極重悪人無他方便」の文は念仏証拠門十文の中、第四文である。この文は、『要集』では『観経』下々品の意を述べたるものとなつてゐて定散の諸機に冠らすべきものではないのであるが、我が聖人がこの文を引用して『観経』定散の諸機は極重の悪人、他の方便なければ唯弥陀を称名せねばならぬと見給ふたので、茲にも聖人の醇乎たる宗教的態度を見ることが出来る。即ち聖人から見れば、下々品の念仏はすべて定散の諸機に蒙らしむべきもので、定散の機類は一応善機と云はれるけれども、徹底的にいへばすべて極重の悪人であるといふのである。我が聖人はいつも、ものの表面を見ないで、真を徹見し給ふのである。定散の機といふは表相である、仮相である。真なる相は、本願正所被の極重悪人なのである。

と解説されています。
親鸞会でも、すべての人は「極重悪人」であるということを教えていますので、方便のところ以外は納得できると思います。

ましてや、「定散の諸機」に入らない「極重悪人」に対して、親鸞聖人が19願を勧められることなどあり得ないことです。

ところが、19願の対機に関してのみ、親鸞会では下々品の機である「極重悪人」でも「定散の諸機」に突如昇格させるのです。下々品の機が「定散の諸機」と自惚れているからという屁理屈を捏ねるでしょうが、まるっきり逆です。親鸞聖人は自惚れている「定散の諸機」を「極重悪人」に降格されているのです。

「極重悪人」に19願の方便は必要ですか、不要ですか?

こうへい氏は、これでもまだ「解釈が異なる」としか言わないのでしょうね。今後は、どんな断章取義と屁理屈と言い訳が飛び出すことか。