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親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より

浄土真宗親鸞会が、退会者との法論に惨敗逃亡した記録 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」より抜粋

mixiにおける三願転入の法論23

2010年5月14日

 

mixiでの議論は、中断しておりますが、中断する前にこうへい氏がいくつか質問していました。ほとんどは、これまでに何人かの方が述べられたことを理解できない頓珍漢な質問です。
方便についての質問は、これまで詳しい議論がなされていませんでしたので、念の為解説しておきます。

> 浄土門に入って、親鸞聖人の教えを信じている人は、 
> 覚如上人のお言葉で言えば「浄土教を信受する機」であり、 
> 蓮如上人のお言葉で言えば「宿善の機」ということです。 
> ですから、「浄土教を信受する機」「宿善の機」は、 
> 【18願1つを聞けばよいというのが善知識方の教えです】。

未信の人が、18願だけで導かれるということですか? 
19願力も、20願力も不要と言われるのでしょうか? 
もしそうでしたら、19願力や20願力以外の、 
18願力に方便(信前)もある、ということになりますが、 
そのようなことを、親鸞聖人はどこにおっしゃっているのでしょう?

方便ということが全く理解されていないことから起きてきた疑問です。
方便については、少しでも調べる気になれば、解説は一杯ありますので、それを読めば理解できるのですが、高森会長の珍説を頭から信じ込んでいますので、こんな御粗末な質問が出てくるのです。

21世紀の浄土真宗を考える会」では、何回も解説がありますが、善巧方便と権仮方便のところで引用されていたものを紹介しておきます。

木村世雄氏著「『歎異抄』における真実と方便の関係」

・・・つまり方便には《善巧方便》と《権仮方便》の二種類があるというのである。
《善巧方便》
 仏・菩薩が衆生をさとりに導くために、衆生の素質や能力に応じて巧みに化する大悲の具現としての手段、方法、巧妙の智用。
《権仮方便》
 真実の法に入らしめるために仮に設けた法門のこと。方便願、方便の行信、方便化身土というようなものがこれに相当する。この方便は、一度真実に入ったならば不要となり廃されるため暫用還廃(暫く用いて還りて廃す)の法といわれる。

と説明される。

 前者の意味での方便とは娑婆世界の衆生を証果へといざなう方法という意味であり<方便智>あるいは<権智>とも称する。要するに如来の智慧の働きを土台にして巧みな教化方法のことである。善巧方便はまた真実を知ったからといって捨て去ってよいというものではない。
 対する権仮方便は親鸞の「化身土文類」の土台でもある。権仮方便は真実を知りえないものを真実に入らしめるために一時的に用いる方便であり、真実に触れたならばそれを廃し去る方便を意味する。

 伝統的な宗学の解釈では「随自意の法門」と「随他意の法門」とに分けて善巧方便と権仮方便の立場を区別化される。

 「随自意の法門」とは善巧方便のことである。仏の自らの意にかなって用いられる教化の方法であるからそのように称される。それは大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度されるという意味で、阿弥陀仏を「方便法身」というときの方便がそれである。『唯信鈔文意』において二種法身が語られる方便はこの善巧方便に該当する。
 法性法身自身が法性法身とはいかなる法身であるのかを巧みに表現するために、方便法身として「形をあらはして」説明されるのが善巧方便である。法性法身と方便法身は決して別物ではなく、ただ法性と対した時に便宜的に方便と称されているだけで、方便法身は法性法身の世界に達するまでの階梯といった意味ではない。法性法身は全性修起して方便法身を全うじるものである。

 対して「随他意の法門」とは権仮方便のことであり、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受け取れないから、その機(すなわち阿弥陀仏自身から見た「他」のことで、すなわち衆生のこと)に応じて仮にしばらく誘引のために用いられる教えをいう。機が真実の法門に入ったならば、権化の法門は不要となり還りて廃せられる。このように暫く用いるが後には還って廃するような方便を権仮方便もしくは「随他意の法門」という。それは具体的には第十九願(要門)・第二十願(真門)の世界のことを指している。
浄土和讃』「大経讃」には、

 聖道権仮の方便に
 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる
 悲願の一乗帰命せよ

とある。
また『愚禿鈔』巻下には

 上よりこのかた一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく、六種の正に対して六種の雑あるべし。雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、ゆゑに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。おほよそ聖道・浄土、正雑、定散、みなこれ回心の行なりと、知るべし。

とし、ここでは定散二善の聖道行を「回心の行」と名づけることによって、遂には第十八願の信心の世界へと導かれていく雑行であるとされている。

権仮方便とは、18願を信じられず、18願の救いを願わない未熟な機のためになされるものです。18願の救いを願っている人に対しては、19願、20願の権仮方便は廃すべきものです。こうへい氏は、善巧方便と権仮方便の区別が全くないのです。
もちろん高森会長が判っていないことが元です。

真宗学のイロハも知らないようでは、議論が成立する筈も無く、都合の悪い人物を排除するのが最善の方法と判断したのでしょう。

恥ずかしい質問をしているこうへい氏に、善巧方便と権仮方便の意味を誰か教えて挙げてくださいよ。