親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より

浄土真宗親鸞会が、退会者との法論に惨敗逃亡した記録 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」より抜粋

mixiにおける三願転入の法論19

2010年5月3日

 

宿善という基本的な考え方については、紅楳英顕師の書かれた『派外からの異説について』に詳しい解説があります。ネット上でも公開されています。

「親鸞会教義の誤り」
紅楳英顕著『派外からの異説について』

宿善とは、獲信してから過去を振り返っていうことであって、それを未信の人が未来のこととして考えること自体おかしなことなのです。以下に抜粋しますので、よく読んで理解して下さい。

 そもそも宿善ということについては、私の論文にも述べているように、宗祖
聖人は、
  遇、行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。(『教行信証』総序)
  遇、信心を獲ば遠く宿縁を慶べ。(『浄土文類聚鈔』)

と仰せられてある。宗祖聖人が宿善とは宿因等といわず、宿縁といわれている
のは、『教行信証』も『文類聚鈔』も同じであるが、これは、その直前にある
「弘誓の強縁」(他力)の「縁」の語をうけているものと考えられる。だから、
「遠く宿縁を慶べ」とは、ひとえに他力のお育てによるところであったと慶ば
れているのである。蓮如上人も、
  遇獲信心遠慶宿縁と聖人のあそばし置れたるは、たまたまといふは過去に
  あふと云心なり。又、とおく宿縁をよろこぶといふは、今始めてうる信心
  にあらず、過去遠々の昔より以来の御哀にて今うる信心なり。(『拾遺御一代
  記聞書』)

と述べられている。信心を得たところで過去を振り返り、すべて他力のお育て
によるところであったと慶ばれたのが、宗祖聖人であり、蓮如上人である。
 この点高森親鸞会は、
  宿善というのは過去世の仏縁のことであるが、過去に仏縁浅きものは現在
  において真剣に宿善を求めねばならない。でなければ宿善開発の時節到来
  ということはあり得ない。されば宿善は待つに非ず、求めるものである。
                          (『白道もゆ』212頁)
  まず自身の信心決定をめざせ、そのためには宿善をつめ。イ、聴聞、ロ、
  破邪顕正。(『顕正新聞』第93号)
  真実を知らない人に真実をおしえ、求めねばならぬわけを説いているうち
  に、いや他人に説くことによって自分の聞法心も深まって来るのです。即
  ち宿善が厚くなるのです。法施は最上の布施行だからです。(『こんなことが知
  りたい』②87頁)
  真実の仏法のために浄財はすべて尊い宿善となります。この会費改正にあ
  たって進んで宿善を求めさせて頂きましょう。(『顕正新聞』第175号)

等と主張している。「過去に仏縁浅きものは現代において真剣に宿善を求めね
ばならない」とか「まず信心決定をめざせ、そのためには宿善をつめ」等とい
って、これから信心を得るために自力で宿善を積むことを勧めているわけであ
る。このような主張は、宗祖聖人や蓮如上人が信心を得たところから振り返っ
て宿善を語られたのと、基本的に相違しているといわねばならないであろう。
 私が論文に引用したように、大原性実師も「我々が今日弥陀法に遇い之を信
受奉行することを得し因縁となりしことを悉く宿善と称すべく……」と述べて
おられ、また『新・仏教辞典』(中村元監修)も「前世・過去世につくった善根功
徳をいう、また、人の一代に限って、今まで作った善根を指すこともある」と
出している。これらは、現在から過去を振り返っているのであって、これから
獲信のために修することを宿善といっているのではない。
 ところが、高森親鸞会は、大原師や『新・仏教辞典』の所説を、これから獲
信のために修する善のことであるかのように解釈して、「破邪顕正や財施が諸
善万行にはいるか、はいらないか」と質問してきている。私は、それらが諸善
万行にはいるかどうかは問題にしていないのであり、これから獲信のための宿
善として「破邪顕正や財施をせよ」というようなことは、宗祖聖人や蓮如上人
の上にはないと論じているのである。だから、私の意見に反論するのなら、宗
祖聖人や蓮如上人の上で、その文証を出してほしいと求めたわけである。

(中略)

 また『同書』(150頁)では、宿善があくまでも他力によるというならば、すべ
ての人の宿善が平等でなければならないといい、そして、
  本願寺は宿善の相違を認めないのであろうか、若しそうなら紅楳氏のよう
  な熱心なものもあれば、仏とも法とも思っていない人もいるという厳然た
  る事実をどう説明するのか。

と述べている。
 私は宿善の厚薄(相違)を認めないなどといっているのではない。しかし、私
がご法義を喜ぶ身にならせていただいたのは、自力の善を積んだからであると
は毛頭考えず、ひとえに仏のお導き、お育てによるものと味わっているのであ
る。
 この宿善の問題については、さらに『同書』(151頁以下)に『阿弥陀経』の
  已発願、今発願、当発願。
  若已生、若今生、若当生。

等の文をはじめ、覚如上人の
  十方衆生のなかに浄土経を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんと
  ならば『大経』の中に説くが如し、過去の宿善厚き者は今生にこの教えに
  値うてまさに信楽す、宿福なき者はこの教えに遇うといえども念持せざれ
  ばまた遇わざるが如し。(『口伝鈔』)

の文や、蓮如上人の
  陽気・陰気とてあり、されば陽気をうくる花は早く開くなり、陰気とて日
  陰の花は遅く咲くなり。かように宿善も遅速あり、されば已今当の往生あ
  り弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く開くる人もあり。(『御一代
  記聞書』)

の文等を引いて、往生に遅速があるのは宿善が平等でないからであり、宿善が
平等でないことは他力ではないからであるという旨を述べている。
 この点については、すでに私の論文でもふれておいたが、本派の宗学上にお
いても、宿善自力説・宿善他力説・当相自力体他力説等と、学的見解の別れる
ところである。私は、宿善は他力と味わっているが、宿善自力というも、当相
自力体他力というも、それは獲信の立場から振り返って宿善の物体を論ずるこ
とであって、高森氏のように、これから獲信のために自力の宿善を修せよとい
うような宿善論は、先哲の説にもなく、もちろん宗祖聖人をはじめ覚如上人、
蓮如上人の上にも示されていないのである。
 高森親鸞会が引用している覚如上人の『口伝鈔』には、その文の次下に、
  しかれば往生の信心のさだまることは、われらが智分にあらず、光明の縁
  にもよをしそだてられて名号信知の報土の因を得としるべしとなり。これ
  を他力といふなり。

とあるように、覚如上人も、他力のお育てにより信を得ると仰せられてある。
蓮如上人が他力を慶ばれたことについては、今さら論ずるまでもないことであ
る。したがって、覚如上人・蓮如上人の所説に往生の遅速の問題があるからと
いって、宿善が他力のお育てによるとよろこぶことを否定する理由にはならな
いのである。