親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より

浄土真宗親鸞会が、退会者との法論に惨敗逃亡した記録 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」より抜粋

mixiにおける三願転入の法論16

2010年4月27日

 

mixiでの三願転入の議論は決着していますが、自力のことについて論点をずらしたいこうへい氏がしつこく書いていますので、親鸞聖人のお言葉から、自力について再度まとめておきます。

下手な解説を加えるよりも、そのまま読まれた方がよろしいとは思いますが、参考までに現代語訳を付けておきます。

『唯信鈔文意』

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。

(現代語訳)
自力の心を捨てるということは、大乗・小乗の聖人、善人・悪人すべての凡夫、そのような色々な人々、さまざまなものたちが、自分自身を是とする思いあがった心を捨て、わが身をたよりとせず、こざかしく自分の悪い心を顧みたりしないことである。それは具縛の凡愚・屠沽の下類も、ただひとすじに、思いはかることのできない無礙光仏の本願と、その広く大いなる智慧の名号を信じれば、煩悩を身にそなえたまま、必ずこの上なくすぐれた仏のさとりに至るということである。

『一念多念証文』

自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。

(現代語訳)
自力というのは、わが身をたのみとし、わが心をたのみとすることであり、自分の力を頼って行にはげみ、自分がつくるさまざまな善を頼りにする人のことである。

『末灯鈔』

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。

(現代語訳)
まず自力ということは、行者がそれぞれの縁にしたがって、阿弥陀仏以外の仏の名号を称え、あるいは念仏以外の善を修めて、自身をたのみとし、自らのはからい心で、身・口・意の三業の乱れをとりつくろい、立派に振舞って浄土に往生しようと思うことを自力というのです。

教行信証』化土巻

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

(現代語訳)
定善の専心・散善の専心とは、罪を恐れ自分の善をあてにする心で本願力を願い求めるのであり、これを自力の専心というのである。

親鸞聖人は自力についていろいろの言い方をされています。

・みづからが身をよしとおもふこころ
・わが身をたのむ
・わが心をたのむ
・あしきこころをかへりみる
・余の仏号を称念する
・余の善根を修行する
・身・口・意の三業の乱れをとりつくろう
・めでたうしなす
・罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す

かなり具体的なところまで言及されています。最後の「罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す」は、親鸞会の教えと真っ向から対立するものです。

自力が廃るまでは「罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す」が正しいのだ、と主張するでしょうが、そんなややこしいことをどこにも仰っていません。捨てよ、といわれたら、捨てればいいのです。それを、どうこういっているのが、「あしきこころをかへりみる」です。

自力を捨てるのは最後は阿弥陀仏のお力ではありますが、自分で捨てられるものは素直に捨てるのです。捨てようと思ってもどうしても捨てられない自力を阿弥陀仏にお任せするのです。それが捨自(自力無功)であり帰他(他力全託)なのです。

愚者になりて往生す」とは、そういうことだと味わっております。