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親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より

浄土真宗親鸞会が、退会者との法論に惨敗逃亡した記録 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」より抜粋

mixiにおける三願転入の法論14

2010年4月22日

 

昨日、自力と他力について少し述べましたが、ここは非常に重要ですので、昨日紹介しました『末灯鈔』のお言葉について、再度みてみましょう。

 それ浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺(印度)の論家、浄土の祖師の仰せられたることなり。 
 まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。
 しかれば、わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべからず、凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわがこころよければ往生すべしとおもふべからず、自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり。

参考までに、浄土真宗教学研究所の現代語訳も載せておきます。

 浄土真宗の教えでは、往生を願うものについて他力のものと自力のものとがあります。このことはすでにインドの菩薩がたをはじめ、中国や日本の浄土の祖師がたが仰せになっていることです。
 まず自力ということは、行者がそれぞれの縁にしたがって、阿弥陀仏以外の仏の名号を称え、あるいは念仏以外の善を修めて、自身をたのみとし、自らのはからい心で、身・口・意の三業の乱れをとりつくろい、立派に振舞って浄土の往生しようと思うことを自力というのです。また他力ということは、阿弥陀仏の四十八願の中で、真実の願として選び取ってくださった第十八の念仏往生の本願を疑いなく信じることを他力というのです。それは阿弥陀仏がお誓いになられたことですから、「他力においては義のないことをもって根本の法義とする」と、法然上人は仰せになりました。「義」というのは、はからうという言葉です。行者のはからいは自力ですから、「義」というのです。他力とは、本願を疑いなく信じることで間違いなく往生が定まるのですから、まったく「義」はないということです。
 ですから、この身が悪いから、阿弥陀仏が迎え取ってくださるはずがないと思ってはなりません。凡夫はもとより煩悩を身にそなえているのですから、自分は悪いものであると知るべきです。また自らの心が善いから、往生することができるはずだと思ってはなりません。自力のはからいでは、真実の浄土に生れることはできないのです。

如何でしょうか。自力といいましても、いろいろあるのです。親鸞会では、信一念で、すべての自力が一度に廃るという理解をしていますが、「余の仏号を称念」することは、浄土門に入る以前の話ですし、「余の善根を修行してわが身をたの」むことも、浄土門では最初に捨てるべきものです。信一念まで、「余の仏号を称念」することを信じているとでも思っているのでしょうが、余りにも御粗末です。

自力のあるままでは、報土には往けません。自分の行いの善悪を問題にすることが、自力のはからいです。善をしたら信仰が進むとか進まないとか、19願を必ず通るのだからとか、そんな低レベルの考えは、早く捨てないといけません。

親鸞会の教義は、言葉は浄土真宗でも、意味が全く違います。敢て言えば、親鸞会の理解は日蓮宗に近いと思います。

現会員さんは、親鸞聖人の御著書も読んだこともなく、言葉の意味も何も知らない高森会長をいつまで信じているのでしょうか。
親鸞聖人の御著書を拝読しましょう。『御文章』を拝読してください。
そうすれば、高森会長が如何に無知であるかがよく判ります。