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親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より

浄土真宗親鸞会が、退会者との法論に惨敗逃亡した記録 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」より抜粋

mixiにおける三願転入の法論12

2010年4月19日

 

mixiでは相も変わらず、こうへい氏が言い訳をしています。実に親鸞会らしい言動です。
未だに聖道門は、信の一念まで捨てられないということを言いたいようです。
何度も聖道門について書いているのは、そのためですが、理解力のない人物のために、もう暫くお付き合い下さい。
親鸞聖人は、聖道門と浄土門の違いについて、これまで挙げてきた根拠以外にも、仰っています。その1つがmixiに紹介されていました。

教行信証』化土巻

また菩薩はすでに生死を勉れて、所作の善法回して仏果を求む、すなはちこれ自利なり。衆生を教化して未来際を尽す、すなはちこれ利他なり。しかるに今の時の衆生、ことごとく煩悩のために繋縛せられて、いまだ悪道生死等の苦を勉れず。縁に随ひて行を起して、一切の善根つぶさにすみやかに回して、阿弥陀仏国に往生せんと願ぜん。かの国に到りをはりて、さらに畏るるところなけん。上のごときの四修、自然任運にして、自利利他具足せざることなしと、知るべし

この解釈を梯實圓著『顕浄土方便化身土文類講讃』より引用

 つぎに「また菩薩はすでに生死を勉れて、所作の善法回して仏果を求む」等といわれたのは、四修釈の結文である。はじめに「菩薩はすでに生死を勉れて」と訓点されているように分段生死をはなれている初地以上の大菩薩の自利利他の行相を挙げて、聖道門は、このような大菩薩であってはじめて如実に実践できる仏道であると示されるのである。それにひきかえ「今の時の衆生、ことごとく煩悩のために繋縛せられて、いまだ悪道生死等の苦を勉れず」といって、それは末法濁世の凡夫には堪えられない難行であることを知らせ、「縁に随ひて行を起して、一切の善根つぶさにすみやかに回して、阿弥陀仏国に往生せんと願ぜん」と、聖道を捨てて易行易修の浄土門に帰し、往生浄土を期すべしと勧められている。しかしその「縁に随ひて起こした行」は、『法事讃』下に「極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善おそらくは生じがたし」といわれた「随縁の行」であるから、無為涅槃界である報土の因となる本願の行ではなくて、化土の因でしかない定散行を勧められていることがよくわかる。したがってこれは『観経』の顕の義、すなわち要門が聖道門の機を浄土門へと導いていく有様を具体的に示された文であったといえよう。

菩薩の歩む道とは、聖道門であることは、親鸞聖人のお言葉からも明らかです。
『大無量寿経』19願の「十方衆生」にあたる『平等覚経』『大阿弥陀経』の部分には、「作菩薩道者」とありますので、19願はまさに聖道門の人を浄土門に導くための願です。

また同じ梯實圓著『顕浄土方便化身土文類講讃』より以下の部分が引用されていました。

 親鸞聖人が第十八願・第十九願・第二十願の三願に真仮の別を見られたといったが、このように四十八願のなかに真仮を見るのは聖人の独自の発揮であって、古今に例を見ないところである。 
(中略) 
 ところでこの三願に真仮を見られた祖意を先哲は種々に考察されているが、鮮妙師は、それらをまとめて、『宗要論題決擇編』巻一に、

 四十八願の至要たる「重誓偈」に徴するに、名号流布を誓て諸行を誓はず、 
 況んや六八願中多く聞名の得益を願ずと雖も諸行及び植諸徳本を誓はず。 
 又直ちに生因三願について伺ふに五由あるべし。一つには信行前後の異、 
 二つには信楽有無の異、三つには乃至有無の益、四つには得益定不の異、 
 五つには唯除有無の異これなり。

といっている。四十八願の中には聞名の益は説かれているが、諸行の益は説かれていないし、四十八願を要約した「重誓偈」にも諸行往生は説かれず、植諸得本も説かれず、ただ名号の流布のみを強調されているということは、第十八願の聞名往生を仏の随自意真実とみなされている証拠であるというのである。そして、さらに三願を対望して五由を挙げて詳細にその仏意を探っている。 
(中略) 
 五つに唯除有無の異とは、第十八願にのみ「唯除五逆誹謗正法」と逆謗抑止の文がおかれている。『尊号真像銘文』には、上の「若不生者」の釈につづいて、

 「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、 
 誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめ 
 して、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

といわれている。これによって第十八願の救済の対象となっている機は、五逆をつくり、正法を誹謗するような、極悪のものを含めた十方衆生であるから、善悪・賢愚を簡ばず一切の衆生を所被の機とされていることがわかる。これに対して第十九願・第二十願にこのような抑止の言葉がないのは、いずれも善人のみを所被の機とされていて、逆謗を抑止する必要がなかったからである。ここに、善人のみの救いを誓われる第十九願・第二十願と、特に悪人を回心させて救うことに焦点を合わせている第十八願との違いが明らかになるというのである。このようにして生因三願を対照すると、第十八願には他力廻向の行信による万人平等の救いが誓われており、第十九願・第二十願には自力の行信による往生が誓われていることがわかるのである。どちらに如来の平等の大悲の本意が顕われているかは明瞭である。 
(中略) 
 第十九願・第二十願は、自力の執着がふかく、罪(悪)福(善)の因果に則った廃悪修善の教えは信じても、善悪を超えた他力不思議の救いを受け容れることが出来ない未熟のものを育てるために施設された権仮方便の教えであるというのが親鸞聖人の領解であった。特に第十九願は、聖道門の機を浄土門に誘引するために諸行往生を誓われた方便の誓願であり、第二十願は、諸行往生の機を自力念仏の機に育て、さらに第十八願の他力念仏に入れしめるための方便願であるといわれている。

19願要門の対機について説明されたものです。悪人にとりましては、聖道門は「今の時の衆生、ことごとく煩悩のために繋縛せられて、いまだ悪道生死等の苦を勉れず」で難しいのですが、19願さえも対機ではないのです。19願からも漏れているのです。

当ブログの読者の方々の主張は、これらにも一致していますので、普通の解釈といえるでしょう。

しかし、こうへい氏は、誰がどんな解釈をしようがお構いなしで、親鸞会教義が正しいのだから正しいのだという論理展開です。

上から目線でしか話ができませんので、まともな議論は成立しないでしょう。