親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より

浄土真宗親鸞会が、退会者との法論に惨敗逃亡した記録 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」より抜粋

mixiにおける三願転入の法論4

2010年4月6日

 

大沼師の三願転入論を、自分の欲望を満たすために中途半端にパクリましたので、ヘンテコな教義が余計にヘンテコになりました。

それゆえ親鸞会の会員は、三願についての理解が歪です。三願を1セットのものと考えていますが、親鸞聖人は三願を別個のものと教えておられるのです。

「親鸞会教義の誤り」親鸞会は諸行往生13
より引用

18願、19願、20願は生因三願といわれます。衆生が浄土に往生する因について3通りあると親鸞聖人は解釈なされているのです。三願はそれぞれ独立したものということです。

生因三願と往生、『教行信証』の関係は以下の通りです。

18願──他力念仏往生(報土往生)──『教行信証』真仏土巻 
19願──自力諸行往生(化土往生)──『教行信証』化土巻 
20願──自力念仏往生(化土往生)──『教行信証』化土巻

また浄土三部経と生因三願の関係については

『大無量寿経』──18願意-他力念仏往生 
観無量寿経』──顕説(方便)19願意-自力諸行往生 
         └─隠彰(真実)18願意-他力念仏往生 
阿弥陀経』──顕説(方便)20願意-自力念仏往生 
        └─隠彰(真実)18願意-他力念仏往生

となります。

だから、方便の19願、20願を廃して真実の18願を立てよと真仮廃立を教えておられるのですが、親鸞会の会員は、18願に入るためには19願、20願を必ず通らなければならないとしか考えられないようです。

利井鮮妙著『宗要論題決擇編』には

四十八願の至要たる「重誓偈」に徴するに、名号流布を誓て諸行を誓はず、況んや六八願中多く聞名の得益を願ずと雖も諸行及び植諸徳本を誓はず。又直ちに生因三願について伺ふに五由あるべし。一つには信行前後の異、二つには信楽有無の異、三つには乃至有無の益、四つには得益定不の異、五つには唯除有無の異これなり。

とあります。
48の願を要約した「重誓偈」にも諸行・植諸徳本は説かれず、名号流布を強調され、聞名の益は説かれているが、諸行の益は説かれていない。
生因三願について5つの相違があるとして、「信行前後の異」、「信楽有無の異」、「乃至有無の益」、「得益定不の異」、「唯除有無の異」を挙げています。
この5つについて詳しく説明すると難しくなりますので、最も重要と思われる最後の「唯除有無の異」についてのみ説明します。
「唯除有無の異」とは、18願には「唯除五逆誹謗正法」とありますが、19・20願にはそれがありません。その相違をいったものです。
ところがそれがどんな意味を持つかを会員は考えたことなどないでしょう。実はここが重要なところなのです。

『尊号真像銘文』には、

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

親鸞聖人は仰っています。これは、「唯除五逆誹謗正法」という抑止のお言葉によって、抑止すべき五逆罪、謗法罪を造っている極悪人も含めた一切の衆生が18願の救いの対象になっていると親鸞聖人は教えられています。念の為申しますと、一切の衆生が五逆罪、謗法罪の者という意味ではありませんので、間違われないようにしてください。
一方で、19・20願にはこの抑止のお言葉がありませんので、抑止する必要のない善人のみを対象とされているということです。
つまり、三願には共通の「十方衆生」と誓いの対象が同じお言葉で表現されていても、その内容が異なっているのです。18願の「十方衆生」は文字通りすべての人が対象で漏れている人はありません。しかし、19・20願の「十方衆生」はすべての人の中で善人のみが対象ということであって、悪人は対象外なのです。

十方衆生」の意味だけ見ても、三願を1セットで考えるということ自体おかしなことなのですが、三願転入という概念が頭から離れない親鸞会の会員にとっては三願が別個というのは理解し難いことでしょう。

親鸞聖人が仰っておられるお言葉を素直にそのまま受けとることが大事です。高森フィルターを外して下さい。