親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より

浄土真宗親鸞会が、退会者との法論に惨敗逃亡した記録 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」より抜粋

mixiにおける三願転入の法論2

2010年4月3日

 

昨日紹介した大沼法龍師の『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』の内容を知りたいと言われる方がありました。読まれればわかりますが、高森会長の『会報』と瓜二つです。言い回しまでそっくりです。本願寺を批判しているポイントも同じです、というよりも大沼師の真似をすれば、本願寺が困るという計算があったものと思います。

高森会長の主張する「三願転入の教え」や本願文のヘンテコ解釈の原点は大沼師にあることは疑いようのないことです。大沼師がおかしいということではなく、大沼師の意図を汲み取れない高森会長の能力の低さが、トンデモ教義を創作する結果となったようです。
『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』の内容を一部紹介します。

  ◎(第十八願の真似)
 浄土真宗と言う狭い漬物桶に押込められて居る佐々木、小山、大江の勧学は六字を通しての仏法の大海を知らないのだ、第十八願の一本槍で進まうとして、他力そ唯ぞ其儘ぞ出来上った事を聞け、我機に用事はないと無帰命安心を平気で教えて居るがそれでよいか、三業安心の余波を受けて、己を抜にして槍放しを無我のように思い、無努力を他力廻向のように心得て居るがそれでよいか、真宗が衰滅して行く原因が何処に有るか御承知か、新興宗教が潮の如く漫延して行くのは既成宗教が骨董化して時代を救い切らない事を御承知ないのか、新興宗教を迷信じゃ邪教じゃ、濁り水を飲むな、腐り水を飲むなと攻撃するよりは、こちらに清いな水が有るから存分飲みなさいと何故汲み上げて飲まさないのだ、誰も濁水の飲みたい者は居ないのだ、戦後思想が混乱して乾き切って居るから清濁の判断がつかないのだ、無上の妙法だ、無上宝珠の清水だと誇大な広告はして居るけれども、自分は泥酔無能で一句の法門も説き切らず、たまたま大音声で説教しても、何時の事かと思えば心だ先の夢物語りで現在が救われるか、衰微するのが当然と言う事が当局にはまだ眼が覚めないのか。
 本願寺の総長を始め勧学のお歴歴から頭の切り替えをやらなければ真宗の復興は望めない。君達は第十八願や成就の文を有難がって見て居るのであって十八願の身になる事を忘れて居るのだ、至心信楽の文に陶酔し、至心に廻向せしめ給えりに酩酊して麻痺状態となり、阿片やヒロポンに中毒されて萎靡沈滞して活動能力を失うて居るのだ、第十八願の文を見て自分は至心信楽己を忘れて乃至十念の称名を称えて居るから死にさえすれば往生に間違いはない、仏様が若し生れささずんば正覚を取らずと仰せられたのが、既に十劫の昔に正覚を成就して居らるるから十劫の昔に助かって居るのだと安心して居るが、君達は文面を見て裏面を読んで居ないのだ。唯除五逆誹謗正法とは誰の事かい、勧学だと威張って居る君達の事だぞ、除かれて居るとも知らずにのさばりかえって居るが、それだから開発の一念を知らないのだ、若不生者不取正覚とは生れさすとは死後の事しか知らないのだろう、心命終を忘れたか、君の逆謗の屍を今心命終ささなければ正覚を投げ出すぞと言うことだよ。成就の文にしても至心に廻向して貰ったか、不可称不可説不可思議の功徳は行者の身に満てりと有るが、三千世界の果報者は自分一人と言う満足が有るか、観念の遊戯だけして居るのだからそんなはっきりした事は有るまい、何を廻向されたか、上に向えば法体の大行、下に向えば当果決定、誰が頂くのだ、諸有衆生、その腹底は、唯除逆謗、おいおい君達、素直に聞いて居ればよいと言うような対岸の火事のような話ではないぞ、君が邪見驕慢の逆謗の屍ではないか、その機に久遠劫から付き纏い、至心に廻向し給いいて聞即信の一念に法体の大行を全領し同時に住不退転の当果を決定さして頂くのだが、文面を読んで眺めて通って居るのだから何とも有るまい、これが実地に諦得出来たのなら信前信後の水際鮮かに今こそ明らかに知られたりと大慶喜せずには居られないのだ、その初起の一念を信一念と名前を付けるのだ、時尅に何の関係が有るのだ、味に用事が有るのだ、本当に大満足の出来た人なら実時は判らないが仮時ならあの時であったと言えるのだ、君達にはあの時もこの時もないのだ、御経やお聖教を読んで通って見て感じただけだから自分の実機とは無関係だから観念の遊戯に過ぎないのだ、勧学で有りながら実地の体験がないのだから、晴れたのやら暮れたのやら、水際もなければ角目もない、……

親鸞会で昔よく聞いた信前信後の水際のところです。ここを覚えていれば、昔の高森会長の様な説法は信心に関係なく誰でもできると思います。
ネタばらしをすれば、無二の善知識もその辺の俗人以下だったとなります。