親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より

浄土真宗親鸞会が、退会者との法論に惨敗逃亡した記録 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」より抜粋

はじめに

2010年3月より、mixiの「★親鸞聖人★」コミュニティ内の三願転入トピックで、こうへい氏(親鸞会講師部員で、途中から高森会長が直接指導)と、親鸞会退会者との間で、法論がなされました。

結果は、親鸞会側の完全敗北で、逃亡の末にこのトピックごと削除されました。

つまり、法論自体を削除しようとしたのです。

その時の形跡は至る所に残されていますが、この親鸞会退会者を支援していた「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」というブログにある関連エントリーを、ここに抽出しました。

親鸞会にとっては、実質的にも形式的にも大惨敗の法論です。その内容をまとめた

親鸞会の邪義を正す
”三願転入の教え”の誤り1

も併せてお読みください。

mixiにおける三願転入の法論1

2010年4月2日

 

「三願転入の教え」と高森会長はいいますが、そもそも「三願転入の教え」とは何でしょうか?

三願転入について仰ったのは、親鸞聖人だけです。覚如上人も、蓮如上人も仰っていません。親鸞聖人も『教行信証』化土巻にのみ仰っただけで、他のところでは仰っていません。

善知識方の御著書を読んだことのない高森会長は、そんなことはもともと関係ないのでしょう。

三願転入が親鸞聖人の教えの根基

と高森会長はいっていますが、その出典が判明しました。
大沼法龍著『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』

大沼は三願転入を根基として布教している居るのだ

とあります。本のタイトルも、どこかで見たようなものです。本願寺批判の内容までもそっくりです。昭和30年に大沼師が本願寺を批判して著したものです。

それは兎も角として、大沼師が本願寺批判の際に強調していた三願転入が真宗の常識のように装って「三願転入の教え」としてしまうところが、姑息な高森会長らしいです。

しかし、三願転入とはいいながら親鸞会で説いていることは19願のことだけです。18願に入るためには万人共通で19願から始めなければならないというものです。

昨日も述べましたが、親鸞聖人は19願を、方便化土への往生を誓われた願と、聖道門の人を浄土門へ誘引させる願という二面でみられていました。親鸞会の主張とはかなりの隔たりがあります。

では法然上人は19願をどのようにみられていたのでしょうか。

『漢語灯録』には、

上の本願の願成就文に、但念仏を明すといえども、上の来迎の願等の中、及び次の三輩の文、助念往生、諸行往生を明かせり

とあります。「来迎の願」とは19願のことであり、19願を『大無量寿経』三輩段にある諸行往生を誓われた願とみられていました。
また『西方指南抄』には、

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしめむと也

とありまして、聖道門の人を浄土門へ誘引させるという親鸞聖人の19願観の元になったものと思われます。

法然上人にも三願転入という教えはもちろんありません。

大沼師の著書を参考にする程度の学識で本願寺を批判し、真宗の教義が誰よりも判った顔をしている無恥の善知識様は、いつまで迷走を続けるつもりでしょうか?

批判している方が恥ずかしくなります。

mixiにおける三願転入の法論2

2010年4月3日

 

昨日紹介した大沼法龍師の『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』の内容を知りたいと言われる方がありました。読まれればわかりますが、高森会長の『会報』と瓜二つです。言い回しまでそっくりです。本願寺を批判しているポイントも同じです、というよりも大沼師の真似をすれば、本願寺が困るという計算があったものと思います。

高森会長の主張する「三願転入の教え」や本願文のヘンテコ解釈の原点は大沼師にあることは疑いようのないことです。大沼師がおかしいということではなく、大沼師の意図を汲み取れない高森会長の能力の低さが、トンデモ教義を創作する結果となったようです。
『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』の内容を一部紹介します。

  ◎(第十八願の真似)
 浄土真宗と言う狭い漬物桶に押込められて居る佐々木、小山、大江の勧学は六字を通しての仏法の大海を知らないのだ、第十八願の一本槍で進まうとして、他力そ唯ぞ其儘ぞ出来上った事を聞け、我機に用事はないと無帰命安心を平気で教えて居るがそれでよいか、三業安心の余波を受けて、己を抜にして槍放しを無我のように思い、無努力を他力廻向のように心得て居るがそれでよいか、真宗が衰滅して行く原因が何処に有るか御承知か、新興宗教が潮の如く漫延して行くのは既成宗教が骨董化して時代を救い切らない事を御承知ないのか、新興宗教を迷信じゃ邪教じゃ、濁り水を飲むな、腐り水を飲むなと攻撃するよりは、こちらに清いな水が有るから存分飲みなさいと何故汲み上げて飲まさないのだ、誰も濁水の飲みたい者は居ないのだ、戦後思想が混乱して乾き切って居るから清濁の判断がつかないのだ、無上の妙法だ、無上宝珠の清水だと誇大な広告はして居るけれども、自分は泥酔無能で一句の法門も説き切らず、たまたま大音声で説教しても、何時の事かと思えば心だ先の夢物語りで現在が救われるか、衰微するのが当然と言う事が当局にはまだ眼が覚めないのか。
 本願寺の総長を始め勧学のお歴歴から頭の切り替えをやらなければ真宗の復興は望めない。君達は第十八願や成就の文を有難がって見て居るのであって十八願の身になる事を忘れて居るのだ、至心信楽の文に陶酔し、至心に廻向せしめ給えりに酩酊して麻痺状態となり、阿片やヒロポンに中毒されて萎靡沈滞して活動能力を失うて居るのだ、第十八願の文を見て自分は至心信楽己を忘れて乃至十念の称名を称えて居るから死にさえすれば往生に間違いはない、仏様が若し生れささずんば正覚を取らずと仰せられたのが、既に十劫の昔に正覚を成就して居らるるから十劫の昔に助かって居るのだと安心して居るが、君達は文面を見て裏面を読んで居ないのだ。唯除五逆誹謗正法とは誰の事かい、勧学だと威張って居る君達の事だぞ、除かれて居るとも知らずにのさばりかえって居るが、それだから開発の一念を知らないのだ、若不生者不取正覚とは生れさすとは死後の事しか知らないのだろう、心命終を忘れたか、君の逆謗の屍を今心命終ささなければ正覚を投げ出すぞと言うことだよ。成就の文にしても至心に廻向して貰ったか、不可称不可説不可思議の功徳は行者の身に満てりと有るが、三千世界の果報者は自分一人と言う満足が有るか、観念の遊戯だけして居るのだからそんなはっきりした事は有るまい、何を廻向されたか、上に向えば法体の大行、下に向えば当果決定、誰が頂くのだ、諸有衆生、その腹底は、唯除逆謗、おいおい君達、素直に聞いて居ればよいと言うような対岸の火事のような話ではないぞ、君が邪見驕慢の逆謗の屍ではないか、その機に久遠劫から付き纏い、至心に廻向し給いいて聞即信の一念に法体の大行を全領し同時に住不退転の当果を決定さして頂くのだが、文面を読んで眺めて通って居るのだから何とも有るまい、これが実地に諦得出来たのなら信前信後の水際鮮かに今こそ明らかに知られたりと大慶喜せずには居られないのだ、その初起の一念を信一念と名前を付けるのだ、時尅に何の関係が有るのだ、味に用事が有るのだ、本当に大満足の出来た人なら実時は判らないが仮時ならあの時であったと言えるのだ、君達にはあの時もこの時もないのだ、御経やお聖教を読んで通って見て感じただけだから自分の実機とは無関係だから観念の遊戯に過ぎないのだ、勧学で有りながら実地の体験がないのだから、晴れたのやら暮れたのやら、水際もなければ角目もない、……

親鸞会で昔よく聞いた信前信後の水際のところです。ここを覚えていれば、昔の高森会長の様な説法は信心に関係なく誰でもできると思います。
ネタばらしをすれば、無二の善知識もその辺の俗人以下だったとなります。

mixiにおける三願転入の法論3

2010年4月4日

 

三願転入については、一昨日、大沼法龍師の言葉を紹介しましたが、『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』に書かれた三願転入の意味についても見ておきましょう。

  ◎(三三の法門)
 君達は学問の為の学問であって血の通うた、信仰に生きた学問は一寸もしては居ないではないか、祖師の求道を祖師の求道と眺めて、各自の実地の求道の手本には成ってはいないではないか。化土巻に
「是を以て愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ宗師の勧化によりて久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離れ、善本徳本の真門に廻入して偏に難思往生の心を発しき。然るに今特に方便の真門を出でて選択の願海に転入し、速に難思往生の心を離れて難思議往生を遂げんと欲す、果遂の誓良に由ある哉、ここに久しく願海に入りて深く仏恩を知れり、至徳を報謝せんが為に真宗の簡要を拡うて、恒常に不可思議の徳海を称念す、弥斯を喜愛し特に斯を頂戴するなり」
と実地に求道されて開発の境地に到る指針であり、無明の闇夜を照す燈明台ではないか、この源泉を尋ぬれば真仏土巻に「然るに願海に就きて真あり仮あり、是を以て復仏土に就きて真有り仮有り、選択本願の正因に由りて真仏土を成就せり 乃至 既に真仮皆是れ大悲の願海に酬報せり。故に知んぬ報仏土なりといふことを、良に仮の仏土の業因千差なれば土復応に千差なるべし、是を方便化身化土と名く、真仮を知らざるに由りて如来広大の恩徳を迷失す」と弥陀の本願に真仮あり、これを釈尊開設して三部経となし、一代の説教を八万の法蔵に述べて群生を教化し調機誘引して一切経を自力の出世本懐たる法華経に集中して演説の最中、悲泣雨涙の韋提の請に応じて第十九願開設の観経の説法となり、法が自力、機が自力の要門を説き、遂に定散を捨てて念仏に皈せしめ、次に第二十願開設の小経に運んで法が他力で機が自力の真門を説き、嫌貶開示して名号の超過を教うれども機執が去らず、最後に第十八願開設の大経に趣入せしめて法が他力、機が他力の弘願の座敷に乗せるには唯除逆謗と悪人の正機を照し出し、自力を浄尽して不思議の仏智を廻向する、名号法爾の徳として顕示して居らるるを、祖師は如来所以興出世、唯説弥陀本願海と言い、蓮師は「八万の法蔵をしるといふとも後世をしらざる人を愚者とす、たとひ一文不知の尼入道なりといふとも後世をしるを知者とすといへり」と言って、自力の出世本懐より他力の出世本懐に趣入でしめるのが仏祖の真意ではないか。
 然るに真宗の学者は頭だけ初めから第十八願に据り込んで、実地の求道をして居ないではないか、祖師の苦心された三三の法門は骨董化して学問の羅列になり、蓮師の雑行雑修自力の心をふり捨ては自分とは無関係で、はいの返事も向うからと助かった積りで死後を夢見て居るが、何んと恐しい堕落だろう、脈が上って居るから処置なしだ。畢竟感情に瞞され、自惚れに酔うて実地の求道を抜きにして居るから三願転入の真意を無視して居るのだ、実地に通って居ないから真仮の分斉も知らず、信一念の極意も諦得せず、頭は合点しても腹は流転するのだ、俗人は気に掛るから熱心に法の話をするが、坊主はてんで気に掛らないから阿呆の話でもして居るのだ。君達は第十八願の真似をして有難がって布教しているのだ、大沼は三願転入を根基として布教して居るのだ、これを異安心と言うのなら祖師も釈尊も弥陀も皆異安心ぞ、自分達の無安心を反省したらどうだ。

大沼師は三願転入をこの著書の中で、しきりと強調していますが、高森会長が言っていることと言葉は同じでも意味が違っています。
大沼師は、学問の為の学問をしていたという当時の勧学の無帰命安心を非難するために、信前信後のあることを三願転入で説明されているのです。最初から18願に入っている人はいない、親鸞聖人も18願に入られる前に、19願、20願にいたと告白なされているように、信前と信後の水際があることを言われているのです。19願、20願の行を勧められているのではありません。

高森会長も、それは判っているものと思われます。善の勧めを、宿善よりも強力な根拠として大沼師の三願転入論を途中から利用したのでしょう、大沼師の意図を無視して。

この著書の中でも大沼師は書いていますが、大沼師は自己の味わいとしてお聖教を解釈しているところが相当にあります。ですから大沼師の教えている通りに話をしていれば、一貫性もあったのでしょうが、高森会長が名利の為に利用しただけですので、高森会長の教えは大沼師とも違っていますし、ましてや親鸞聖人の教えとは天と地程異なっているのです。

親鸞会の会員は、高森会長のいう「三願転入の教え」の正体を凝視して欲しいものです。

mixiにおける三願転入の法論4

2010年4月6日

 

大沼師の三願転入論を、自分の欲望を満たすために中途半端にパクリましたので、ヘンテコな教義が余計にヘンテコになりました。

それゆえ親鸞会の会員は、三願についての理解が歪です。三願を1セットのものと考えていますが、親鸞聖人は三願を別個のものと教えておられるのです。

「親鸞会教義の誤り」親鸞会は諸行往生13
より引用

18願、19願、20願は生因三願といわれます。衆生が浄土に往生する因について3通りあると親鸞聖人は解釈なされているのです。三願はそれぞれ独立したものということです。

生因三願と往生、『教行信証』の関係は以下の通りです。

18願──他力念仏往生(報土往生)──『教行信証』真仏土巻 
19願──自力諸行往生(化土往生)──『教行信証』化土巻 
20願──自力念仏往生(化土往生)──『教行信証』化土巻

また浄土三部経と生因三願の関係については

『大無量寿経』──18願意-他力念仏往生 
観無量寿経』──顕説(方便)19願意-自力諸行往生 
         └─隠彰(真実)18願意-他力念仏往生 
阿弥陀経』──顕説(方便)20願意-自力念仏往生 
        └─隠彰(真実)18願意-他力念仏往生

となります。

だから、方便の19願、20願を廃して真実の18願を立てよと真仮廃立を教えておられるのですが、親鸞会の会員は、18願に入るためには19願、20願を必ず通らなければならないとしか考えられないようです。

利井鮮妙著『宗要論題決擇編』には

四十八願の至要たる「重誓偈」に徴するに、名号流布を誓て諸行を誓はず、況んや六八願中多く聞名の得益を願ずと雖も諸行及び植諸徳本を誓はず。又直ちに生因三願について伺ふに五由あるべし。一つには信行前後の異、二つには信楽有無の異、三つには乃至有無の益、四つには得益定不の異、五つには唯除有無の異これなり。

とあります。
48の願を要約した「重誓偈」にも諸行・植諸徳本は説かれず、名号流布を強調され、聞名の益は説かれているが、諸行の益は説かれていない。
生因三願について5つの相違があるとして、「信行前後の異」、「信楽有無の異」、「乃至有無の益」、「得益定不の異」、「唯除有無の異」を挙げています。
この5つについて詳しく説明すると難しくなりますので、最も重要と思われる最後の「唯除有無の異」についてのみ説明します。
「唯除有無の異」とは、18願には「唯除五逆誹謗正法」とありますが、19・20願にはそれがありません。その相違をいったものです。
ところがそれがどんな意味を持つかを会員は考えたことなどないでしょう。実はここが重要なところなのです。

『尊号真像銘文』には、

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

親鸞聖人は仰っています。これは、「唯除五逆誹謗正法」という抑止のお言葉によって、抑止すべき五逆罪、謗法罪を造っている極悪人も含めた一切の衆生が18願の救いの対象になっていると親鸞聖人は教えられています。念の為申しますと、一切の衆生が五逆罪、謗法罪の者という意味ではありませんので、間違われないようにしてください。
一方で、19・20願にはこの抑止のお言葉がありませんので、抑止する必要のない善人のみを対象とされているということです。
つまり、三願には共通の「十方衆生」と誓いの対象が同じお言葉で表現されていても、その内容が異なっているのです。18願の「十方衆生」は文字通りすべての人が対象で漏れている人はありません。しかし、19・20願の「十方衆生」はすべての人の中で善人のみが対象ということであって、悪人は対象外なのです。

十方衆生」の意味だけ見ても、三願を1セットで考えるということ自体おかしなことなのですが、三願転入という概念が頭から離れない親鸞会の会員にとっては三願が別個というのは理解し難いことでしょう。

親鸞聖人が仰っておられるお言葉を素直にそのまま受けとることが大事です。高森フィルターを外して下さい。

mixiにおける三願転入の法論5

2010年4月8日

 

当ブログの読者の方が、mixi親鸞会講師部員らしき人物と三願転入についての議論をされています。

親鸞聖人★ トピック 三願転入
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=51573620&comm_id=1770759

(※現在は削除されています)

私も見ていましたし、陰ながら応援しておりまして、関連するエントリーを書いてきました。

詳しい内容は、各自で御確認下さい。

現在問題になっているのが、18願の「十方衆生」と19願の「十方衆生」とは違うのかということです。
最近のエントリーを読まれた方ならばお判りかと思いますが、実は違います。

親鸞会では、同じ文字だから同じ意味と考えているようですが、親鸞聖人は違うと見られていたのです。

それが『教行信証』化土巻・要門釈の

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

であり、『尊号真像銘文』の

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

なのです。

19願の「十方衆生」は聖道門の人のことと親鸞聖人はみておられたのです。

実はこの内容は
「21世紀の浄土真宗を考える会」
生因三願の「十方衆生」についての考察
十方衆生とはいうものの…
にすでに書かれてあります。

生因三願の「十方衆生」についての考察
の方を紹介しておきます。

無量寿経(大無量寿経)の第18願、第19願、第20願の三願は生因の願と言われます。
これらの願の対機はいずれも「十方衆生」ですが、異訳本と比較すると、同じ「十方衆生」でも意味が異なることが分かります。

現在残っている完本は、サンスクリット本、漢訳5種、チベット訳の合計7種あります。
漢訳5種、チベット訳の6本の原本は失われています。
つまり、同じ原本から訳されたものではないですし、漢訳5種の原本は現存のサンスクリット本ではないということです。
『大阿弥陀経(仏説阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経)』と『仏説無量清浄平等覚経』は「初期無量寿経」と言われ、阿弥陀仏の本願が24です。
『無量寿経』『無量寿如来会』『仏説大乗無量寿荘厳経』および、サンスクリット本、チベット訳は「後期無量寿経」と言われます。本願の数は『無量寿経』『無量寿如来会』が48、『仏説大乗無量寿荘厳経』が36、サンスクリット本が47、チベット訳が49です。

さて、『大無量寿経』の生因三願がそれぞれどのように対応しているかということですが、
阿弥陀経の第5願ー平等覚経の第19願ー大無量寿経の第20願
阿弥陀経の第7願ー平等覚経の第18願ー大無量寿経の第19願
阿弥陀経の第4願ー平等覚経の第17願ー大無量寿経の第17願と第18願
の関係にあります。

そして大阿弥陀経と平等覚経の対機・往生の機根は

阿弥陀経の第5願 大阿弥陀経三輩段中の下輩生 前世作悪者
阿弥陀経の第7願 大阿弥陀経三輩段中の上輩生 出家の善男子善女人
阿弥陀経の第4願 前半(大無量寿経の第17願に相当)は諸仏、後半(同第18願)が前世作悪者

平等覚経の第19願 他方仏国の人民(下輩生・前世作悪者)
平等覚経の第18願 諸仏国の人民(上輩生・出家者)
平等覚経の第17願 大阿弥陀経の第4願と同じ

となっています。

阿弥陀経においては、第4願と第5願は関係が深いのですが、
平等覚経においては、第17願と第18願の関係は薄くなっています。
大無量寿経になると、第17願・第18願と第19願の関係はさらに希薄になります。

ちょっとややこしいですが、簡単に言うと、
・もともと、大無量寿経の第19願・第20願にあたる願文の対機は異なるものであった。
・大無量寿経の第18願は、第19願・第20願にあたる願文とは独立していた。大無量寿経で言えば第17願と密接な関係にあった。
・大無量寿経の対機が「十方衆生」と訳されるに伴い、第19願・第20願の対機も「十方衆生」と訳された。
・したがって、言葉は「十方衆生」と同じでも、意味は全く異なる。
・第19願・第20願では十方衆生が○○すると往生できると言われているのに対して、第18願では阿弥陀仏が十方衆生に向かって与えて往生させると言われている。
親鸞聖人はこれらの点などを見られて、第18願を真実願、第19願・第20願を方便願とされた。
となります。

mixiでは読者の方が『平等覚経』まで出されていまして、濃い内容となっていますが、対する親鸞会講師らしき人物は、御粗末な親鸞会教義そのままです。

mixiは、親鸞会の会員も勧誘目的で見ているそうですので、この議論も見ている可能性があります。それでもまだ親鸞会教義の御粗末さに気が付かないとすれば、相当に重症でしょう。

mixiにおける三願転入の法論6

2010年4月9日

 

mixiでのやりとりで、19願の対機が聖道門の人である根拠として挙げられているのが、以下です。

教行信証』要門釈

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。 偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。 
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

梯實圓著『顕浄土方便化身土文類講讃』

 浄土門内の方便教を明かすについて、まず第十九願要門の意を明かし、次いで三経の陰顕を顕わし。最後に第二十願の意を釈されるが、その最初に方便教を説かねばならなかった仏意を明らかにされる。すなわち、釈尊の導きによって、真実に背いた外道を離れて聖道門に入ることができた者も、なおその自力修行の厳しさゆえに、真実をさとり得た者は極めて少なく、せっかく一度は外道を離れて仏道に入りながら、内心は外道から離れることができず、再び邪道に退転してしまう偽の仏弟子も甚だ多かった。そのような状況を憐れんで、釈尊は聖道門から浄土門へと導くために権仮方便の法門を説かねばならなかったというのである。 
(中略) 
 そこで釈尊は浄土の教門を開いて行かれる。まず最初に開顕されたのが福徳蔵といわれる定善、散善によって往生を願う諸行往生の法門であった。その経典が『無量寿仏観経』であった。『観経』の散善顕行縁には、世、戒、行の三福散善を指して、「三世諸仏の浄業正因なり」といわれているように、諸仏の成仏道であった。また定善は、真身観に「無量寿仏を見たてまつれば、すなわち十方無量の諸仏を見たてまつる。無量の諸仏を見たてまつることを得るがゆゑに、諸仏は現前に授記す」といわれているように、諸仏から成仏の授記を得るための「般舟三昧」の行であった。したがって定散諸善の行体は、聖道門の諸行と同じ此土入聖の行であった。そのような聖道門の行を浄土に往生するための行として転換する心がすでに述べたように「至心発願欲生」の三心であり、『観経』でいえば「至誠心、深心、回向発願心」の三心だったのである。こうして、聖道門の修行をそのまま往生の行に転換させ、浄土に生まれさせることによって、聖道門に行き詰まっている行者を浄土門へと誘引し救っていかれるのである。

山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』

然るに五濁の世に汚された群萌、即ち煩悩悪業の含識は、今や諸仏の大悲に育てられて、漸く九十五種の邪道の網を脱れ出でて、仏教に教える所の半字教、満字教、又は権教、実教等の法門を信受し修道するようになっても、真に其の教へに入る者は甚だ得難く、如実の修道者は甚だ稀である。之に反して仏徒といふは名ばかりにて其の実は偽者が非常に多く、内心空虚の者が甚だ多い。 
釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下された。

『選択本願念仏集』

釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、すなはちこれ弥陀の本願にあらざるゆゑなり。また念仏を付属する所以は、すなはちこれ弥陀の本願のゆゑなり。 いままた善導和尚、諸行を廃して念仏に帰する所以は、すなはち弥陀の本願たる上、またこれ釈尊の付属の行なり。ゆゑに知りぬ、諸行は機にあらず時を失す。念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。

『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也

『尊号真像銘文』

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

『平等覚経』17願(前半が『大経』17願、後半が18願)

我作佛時。令我名聞八方上下無數佛國。
諸佛各於弟子衆中。歎我功徳國土之善。
【諸天人民蠕動之類】聞我名字。皆悉踊躍。 
來生我國。不爾者我不作佛。

『平等覚経』18願(『大経』19願)

我作佛時。【諸佛國人民有作菩薩道者】。 
常念我淨潔心。壽終時我與不可計比丘衆。 
飛行迎之共在前立。即還生我國作阿惟越。
不爾者我不作佛

ここまでほぼ完璧と言える根拠を出されても、19願の対機は浄土門の人も含めていると主張しているのが、親鸞会講師部員らしき「こうへい」氏です。

チューリップ企画の法論を思い出しました。親鸞聖人のお言葉を、道理もへったくれもない解釈をして、それが正しいと言い張るのですからね。

さて、『平等覚経』が根拠として出されていますので少しだけ解説します。
浄土経典に詳しい方から訳を教えて頂きました。

『大無量寿経』18願の「十方衆生」=『平等覚経』17願の「諸天人民蠕動之類者
諸々の神々や人々やごそごそと這う虫の類

『大無量寿経』19願の「十方衆生」=『平等覚経』18願の「諸佛國人民有作菩薩道者
諸々の仏国土の菩薩の行を行う者

ここからも判りますが、明らかに『大経』18願と19願の「十方衆生」は違うのです。
『平等覚経』によれば、19願の「十方衆生」は聖道門の人です。

なお、もう一つの『大経』異訳本である『大阿弥陀経』では

『大阿弥陀経』4願(前半が『大経』17願、後半が18願)

使某作佛時。令我名字。皆聞八方
上下無央數佛國。皆令諸佛。各於比丘僧大
坐中。説我功徳國土之善。
【諸天人民。蜎飛蠕動之類】聞我名字。
莫不慈心歡喜踊躍者。皆令來生我國。
得是願乃作佛。不得是願終不作佛

『大阿弥陀経』7願(『大経』19願)

使某作佛時。令【八方上下。無央數佛國。
諸天人民。若善男子善女人。有作菩薩道。】
奉行六波羅蜜經。若作沙門不毀經戒。
斷愛欲齋戒清淨。一心念欲生我國。
晝夜不斷絶。若其人壽欲終時。
我即與諸菩薩阿羅漢。共飛行迎之。
即來生我國。則作阿惟越致菩薩。智慧勇猛。
得是願乃作佛。不得是願終不作佛

ここでも『大経』19願の対機に当るのが、「菩薩の行を行う人」、つまり聖道門の人となります。

法然上人、親鸞聖人が仰っていることと一致します。当たり前のことです。

しかし当たり前のことを当たり前のことと絶対に認めないのが、親鸞会です。

「こうへい」氏はこんなことを書いています。

釈尊や親鸞聖人、蓮如上人、覚如上人は、別格として、

それ以外の先哲にどんな解釈をされた方があったかは問題外です。

とんでもない話です。文底秘沈か秘密の法文を自分達が独占しているとでもいうのでしょうか。

最近の親鸞会では、お聖教を読ませずに、高森会長の著書を根拠に話がなされているそうです。判りますよね。

親鸞会は、年々土蔵秘事に類するものへと変貌しています。そのうちに親鸞聖人も否定することでしょう。