親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より

浄土真宗親鸞会が、退会者との法論に惨敗逃亡した記録 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」より抜粋

mixiにおける三願転入の法論32

2010年6月28日

 

mixiでのこうへい氏も、某ブログも2週間も音沙汰なしですから、流石に逃亡したのでしょうか。尤も、某ブログの管理人は、また別人を装って、新たなブログを作って揚げ足取りに勤しむことが予想されます。懲りない人物ですからね。

さて前回の最後に、『観無量寿経』の隠顕釈について書きました。

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。 
顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。 
すなはちこれ顕の義なり。彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。

高森会長は隠顕について説明をしていたこともありますが、ピントのずれたものでしたので、教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』の補註から隠顕の説明を紹介しておきます。

 阿弥陀仏の第十九願に応じて説かれた釈尊の教えが『観経』であり、第二十願に応じて説かれた教えが『小経』である。『観経』に説かれた教えは、定善・散善といういろいろな善根によって阿弥陀仏の浄土に往生するというものであり、『小経』に説かれた教えは、一心不乱の自力称名念仏によって往生するというものである。第十九願・第二十願の教えが、第十八願の教えに引き入れようとするものであるのと同じく、『観経』、『小経』を説かれた釈尊の本意は、他力念仏の教えを説くことにある。したがって表面に説かれた教えは、前に述べたようなものであるが、その底を流れる釈尊の真意が、部分的に表面にあらわれている。『観経』に、「なんぢよくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」とあり、『小経』に「難信の法」とあるのがその例である。このように表面に説かれた自力の教えを「顕説」といい、底に流れる他力の教えを「隠彰」という。これによって『観経』、『小経』には、隠顕の両意があるといわれる。こうして浄土三部経は、顕説からいえば真実教と方便教の違いがあるが、隠彰の実義からいえば三経ともに第十八願の真実の法門が説かれていることがわかる。

韋提希の請いに応じて釈尊は定善を説かれ、定善のできない人のために釈尊は自ら散善を説かれました。『観無量寿経』の「顕説」は、定散二善です。定散による三心は自力であり、他力の信心ではないのです。その意は、「如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり」と、聖道門の人に浄土を願い慕わせるための善であると善導大師、親鸞聖人は仰っているのです。

一方『観無量寿経』の「隠彰」は、称名念仏です。それが『観無量寿経』最後の付属の文、

なんぢよくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり

これが釈尊の本意です。それを善導大師は『散善義』に

上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

と解釈なされています。
十方衆生に本願の名号を称えさせることが、釈尊の結論であり、本願の御心なのです。韋提希を通して逆悪の機をも漏らさない本願であることを説かれているのです。

それを『浄土和讃』観経讃に

大聖おのおのもろともに
 凡愚底下のつみひとを
 逆悪もらさぬ誓願に
 方便引入せしめけり

と、王舎城の悲劇の登場人物すべてが「逆悪もらさぬ誓願」であることを教えられた善巧方便だと親鸞聖人は仰ったのです。

親鸞聖人は上記のように隠顕で解説してくだされましたが、法然上人は簡潔に廃立で解説なされていました。『選択本願念仏集』には

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く

諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く

とあるのがそれです。
釈尊、善導大師、源信僧都、法然上人、親鸞聖人は、言葉や解説の仕方は違っても、

極重の悪人は、他の方便なし、ただ弥陀を称せよ

と、逆悪の機には19願、定散二善の方便は必要ないことを繰り返し教えていかれたのです。
それが理解できないのか、理解したくないのが、親鸞会でしょう。