mixiにおける三願転入の法論20
2010年5月5日
法然上人は宿善という言葉を使われていますし、親鸞聖人が解説までされた聖覚法印の『唯信鈔』にも宿善は使われています。そのことは、
に書かれてありますので、そちらを参照して下さい。
ところが親鸞聖人は御著書のどこにも宿善という言葉を使われていません。敢て使われていないと考えられます。
『教行信証』総序の
遇、行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。
『浄土文類聚鈔』の
遇、信心を獲ば遠く宿縁を慶べ。
も、宿縁と仰っています。宿善ではありません。
その理由は、宿善の「善」が過去に自分の行ってきた行為、つまり自力を獲信と関係付けようと考える人が出てくることを懸念されてのことと思われます。
これまでに何度も述べてきましたが、親鸞聖人は自力を徹底的に排斥される言い方をされています。七高僧方がそこまで仰っていない自力念仏も、罪福信じる心さえも、自力だから捨てよ、と厳しく教えられた方が親鸞聖人です。
ましていわんや、自力修善は、法然上人がすでに厳しく誡められていますので、誤解を受けるような言葉を避けられたと考えるのがよいでしょう。よく知られているように親鸞聖人は、言葉遣いには大変に気を配られた方であったことからもそれが判るというものです。
ただし、宿善という言葉は他宗でも使われていましたので、覚如上人、蓮如上人は親鸞聖人の御心を踏まえられた上で、真宗における宿善を他宗とは別に定義されたものと思われます。
ですから、覚如上人、蓮如上人は、宿善という言葉を親鸞会で説明しているような意味で使われていません。
に、そのことが詳しく説明されています。
親鸞会で使う宿善の間違いの典型がmixiのこうへい氏の主張です。それをsutybi氏が指摘して、こうへい氏は全く反論できませんでした。それを再度紹介しておきます。
>こうへいさん
>お釈迦様の勧められている廃悪修善の教えに従っての諸善万行は、
>信前の善の物体は、すべて、
>信心獲得した暁からの一切過去における「宿善」に含まれる、
>というのが、私の主張であります。この根拠が、『一念多念証文』のあのお言葉ということでしょうか?
それならば、「浄土の方便の善」=「宿善」
この意味が判りませんので、判るように説明をして頂けませんでしょうか。
>> 4.『一念多念証文』にある「浄土の方便の善」が「宿善」という根拠
>>
>
>これは、確かに申し上げました。
>根拠は、
>
>「いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れりと見えたり」(御文章)
>
>の一言で充分でありましょう。宿世が判る判らないの話ではないです。
蓮如上人が仰る宿善(『御文章』3帖目第12通)
それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。蓮如上人が仰っている宿善とは、『口伝鈔』の
十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。
を受けて仰っています。
宿善の機とは、「浄土教を信受する機」のことです。つまり、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられる人は、宿善の機であり、聖道門の教えを信じて、また聖道門から浄土門に入りながらも法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えを素直に信じられない人は、無宿善の機ということになります。
蓮如上人の仰る「宿善にかぎれり」とは、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられるかどうかです。
親鸞聖人がなぜ、宿善という言葉を使われなかったのか、覚如上人、蓮如上人がその親鸞聖人の御心を汲み取られてどのような意味で宿善を使われているのか、親鸞会会員は、よくよく考えてみるべきでしょう。