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親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より

浄土真宗親鸞会が、退会者との法論に惨敗逃亡した記録 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」より抜粋

mixiにおける三願転入の法論17

2010年4月30日

 

行者のはからひは自力なれば義といふなり」のところで、『末灯鈔』の

如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。

を紹介しました。法然上人の「他力には義なきを義とす」というお言葉を、親鸞聖人は上記以外でも何回も使われています。

正像末和讃

聖道門のひとはみな
 自力の心をむねとして
 他力不思議にいりぬれば
 義なきを義とすと信知せり

「自然法爾章」
「法爾」といふは、如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ。この法爾は、御ちかひなりけるゆゑに、すべて行者のはからひなきをもちて、このゆゑに他力には義なきを義とすとしるべきなり。

『三経往生文類』

これをこころえて、他力には義なきを義とすとしるべし。

『如来二種廻向文』

「他力には義なきをもつて義とす」と、大師聖人(源空)は仰せごとありき。

『末灯鈔』

すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。

つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。

また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは、行者のおのおののはからふことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。このこころのほかには往生に要るべきこと候はずとこころえて、まかりすぎ候へば、人の仰せごとにはいらぬものにて候ふなり。

『御消息』

また弥陀の本願を信じ候ひぬるうへには、義なきを義とすとこそ大師聖人(法然)の仰せにて候へ。 
かやうに義の候ふらんかぎりは、他力にはあらず、自力なりときこえて候ふ。また他力と申すは、仏智不思議にて候ふなるときに、煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりを得候ふなることをば、仏と仏のみ御はからひなり、さらに行者のはからひにあらず候ふ。しかれば、義なきを義とすと候ふなり。義と申すことは自力のひとのはからひを申すなり。
他力には、しかれば、義なきを義とすと候ふなり。

親鸞聖人はこのように好んで使われたお言葉ではありますが、法然上人は頻繁に仰ったとは必ずしもいえません。現在確認できるものでは、

「護念経の奥に記せる御詞」の

浄土宗安心起行の事、義なきを義とし、様なきを様とす。浅きは深きなり。只南無阿弥陀仏と申せば、十悪五逆も、三宝滅尽の時の衆生も、一期に一度善心なきものも決定往生遂るなり。釈迦弥陀を証とす。

だけです。他にもあったという記録はありますが、現在では不明です。親鸞聖人は、これこそが捨自帰他を表す最適のお言葉であると思われたのでしょう。

行者のはからいは自力であり、はからいのないのが他力なのです。
はからいとは、もちろん阿弥陀仏の救いに対してのことです。18願に誓われていないこと、成就文で教えられていないこと、善知識方の仰っていないことを、これが正しい教えなり、と考えることは”はからい”以外の何物でもありません。

他力には義なきを義とす

こうへい氏のような屁理屈は一切不要です。教えられたことをそのまま受け取るのです。