親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より

浄土真宗親鸞会が、退会者との法論に惨敗逃亡した記録 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」より抜粋

mixiにおける三願転入の法論21

2010年5月6日

 

覚如上人が宿善という言葉を使われている根拠として、昨日mixiの書き込みから

『口伝鈔』第二章の

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

を紹介しました。ここでは
宿善あつきもの」=「浄土教を信受する機
宿福なきもの」=「浄土教を信受せざる機
という意味です。

また第四章にも宿善という言葉を使われていますが、これは上記の意味とは異なっています。 長いですが、全文紹介します。

一 善悪二業の事。

 上人[親鸞]仰せにのたまはく、「某はまつたく善もほしからず、また悪もおそれなし。善のほしからざるゆゑは、弥陀の本願を信受するにまされる善なきがゆゑに。悪のおそれなきといふは、弥陀の本願をさまたぐる悪なきがゆゑに。しかるに世の人みなおもへらく、善根を具足せずんば、たとひ念仏すといふとも往生すべからずと。またたとひ念仏すといふとも、悪業深重ならば往生すべからずと。このおもひ、ともにはなはだしかるべからず。もし悪業をこころにまかせてとどめ、善根をおもひのままにそなへて生死を出離し浄土に往生すべくは、あながちに本願を信知せずともなにの不足かあらん。そのこといづれもこころにまかせざるによりて、悪業をばおそれながらすなはちおこし、善根をばあらませどもうることあたはざる凡夫なり。かかるあさましき三毒具足の悪機として、われと出離にみちたえたる機を摂取したまはんための五劫思惟の本願なるがゆゑに、ただ仰ぎて仏智を信受するにしかず。しかるに善機の念仏するをば決定往生とおもひ、悪人の念仏するをば往生不定と疑ふ。本願の規模ここに失し、自身の悪機たることをしらざるになる。おほよそ凡夫引接の無縁の慈悲をもつて修因感果したまへる別願所成の報仏報土へ五乗ひとしく入ることは、諸仏いまだおこさざる超世不思議の願なれば、たとひ読誦大乗・解第一義の善機たりといふとも、おのれが生得の善ばかりをもつてその土に往生することかなふべからず。また悪業はもとよりもろもろの仏法にすてらるるところなれば、悪機また悪をつのりとしてその土へのぞむべきにあらず。
 しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。さればこそ、悪もおそろしからずともいひ善もほしからずとはいへ」。

 ここをもつて光明寺の大師(善導)、「言弘願者 如大経説 一切善悪凡夫得生者 莫不皆乗阿弥陀仏 大願業力為増上縁也」(玄義分)とのたまへり。文のこころは、「弘願といふは、『大経』の説のごとし。一切善悪凡夫の生るることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗りて増上縁とせざるはなし」となり。されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

 これによりて、あるときの仰せにのたまはく、「なんだち、念仏するよりなほ往生にたやすきみちあり、これを授くべし」と。「人を千人殺害したらばやすく往生すべし、おのおのこのをしへにしたがへ、いかん」と。ときにある一人、申していはく、「某においては千人まではおもひよらず、一人たりといふとも殺害しつべき心ちせず」と[云々]。上人かさねてのたまはく、「なんぢ、わがをしへを日ごろそむかざるうへは、いまをしふるところにおいてさだめて疑をなさざるか。しかるに一人なりとも殺害しつべき心ちせずといふは、過去にそのたねなきによりてなり。もし過去にそのたねあらば、たとひ殺生罪を犯すべからず、犯さばすなはち往生をとぐべからずといましむといふとも、たねにもよほされてかならず殺罪をつくるべきなり。善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり。しかればまつたく、往生においては善もたすけとならず、悪もさはりとならずといふこと、これをもつて准知すべし」。

前段は、親鸞聖人のお言葉を書かれたものです。

機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。

とありますように、報土往生には、過去に行ってきた善悪は全く関係がない、ということです。

中段は、善導大師のお言葉から、

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

覚如上人御自身の考えを述べておられます。覚如上人がここで仰っていることは、
宿善あつきひと
=過去世において善に励み悪を慎んできて、「今生に善をこのみ悪をおそる」人
宿悪おもきもの
=過去世において善をせず悪行を重ねてきて、「今生に悪をこのみ善にうとし」の人
ということです。親鸞会でいうところの宿善の厚薄に近い意味ですが、その結論が親鸞会とは全く違います。

ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

過去に行ってきた善悪、言い換えれば「宿善あつきひと」か「宿悪おもきもの」かは、往生と関係付けてはいけないということです。

更に後段に親鸞聖人のお言葉を再度紹介されて、

善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり。しかればまつたく、往生においては善もたすけとならず、悪もさはりとならずといふこと、これをもつて准知すべし

と、過去世、現在世の善悪は、往生の助けにも障りにもならないと仰っています。

つまり、親鸞会で教えているような宿善の厚薄と往生とが関係あるとする考えを、前段・中段・後段で、繰り返し破邪しておられるのです。

こうへい氏は、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人が教えの物差しであると言っていましたが、覚如上人の『口伝鈔』を物差しとすれば、こうへい氏の主張は、覚如上人から邪義扱いされたものになります。

何度も言いますが、少しはお聖教を読んでから親鸞聖人の教えを語らないと、子弟共に大恥を晒すだけですよ。

mixiにおける三願転入の法論22

2010年5月8日

 

『口伝鈔』十四章には、親鸞会では有名な、「体失不体失往生の諍論」について書かれています。全文を見てみましょう。

一 体失・不体失の往生の事。

 上人[親鸞]のたまはく、先師聖人[源空]の御とき、はかりなき法文諍論のことありき。善信(親鸞)は、「念仏往生の機は体失せずして往生をとぐ」といふ。小坂の善恵房[証空]は、「体失してこそ往生はとぐれ」と[云々]。この相論なり。

 ここに同朋のなかに勝劣を分別せんがために、あまた大師聖人[源空]の御前に参じて申されていはく、「善信御房と善恵御房と法文諍論のことはんべり」とて、かみくだんのおもむきを一々にのべまうさるるところに、大師聖人[源空]の仰せにのたまはく、善信房の体失せずして往生すとたてらるる条は、やがて「さぞ」と御証判あり。善恵房の体失してこそ往生はとぐれとたてらるるも、またやがて「さぞ」と仰せあり。

 これによりて両方の是非わきまへがたきあひだ、そのむねを衆中よりかさねてたづねまうすところに、仰せにのたまはく、「善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。〈如来教法元無二〉(法事讃・下)なれども、〈正為衆生機不同〉(同・下)なれば、わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。念仏往生は仏の本願なり、諸行往生は本願にあらず。念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。本願の文あきらかなり、かれをみるべし。つぎに諸行往生の機は臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず。このゆゑにこの穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりてそのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。勝劣の一段におきては、念仏往生は本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる。諸行往生は、非本願なるによりて定散の機にかぎる。本願念仏の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と、殿最懸隔にあらずや。いづれも文釈ことばにさきだちて歴然なり」。

ここで法然上人が仰っているお言葉として、「宿善の厚薄」と書かれています。この意味は、前の部分を読まれればわかります。同じ教えを聞きながら、「わが根機にまかせて領解」することで、念仏往生と諸行往生と考え方が違ってくるということです。つまり、

宿善の厚い人」=「念仏往生の機
宿善の薄い人」=「諸行往生の機

ということです。これは、以前から紹介している『口伝鈔』の二章にある

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

と同じ意味で、覚如上人は「宿善」という言葉を使われています。

宿善あつきもの」=「浄土教を信受する機
宿福なきもの」=「浄土教を信受せざる機

です。

以上をまとめますと、

宿善の厚い人」とは、18願の平生業成、不体失往生、念仏往生を信じて願う人のことであり、言い換えれば親鸞聖人の教えを信じる人のこと。
宿善の薄い人」とは、19願の臨終来迎、体失往生、諸行往生を願う人のこと。
宿善の無い人」とは、浄土仏教を信じられない、聖道仏教や外道を信じている人のこと。

といえると思います。「宿善の薄い人」と「宿善の無い人」とは、一括りにしても良いかも知れません。
親鸞聖人の教えを信じている人は「宿善の厚い人」、親鸞聖人の教えを信じられない人は「宿善の薄い人」もしくは「宿善の無い人」です。

親鸞聖人は18願1つを教えられました。それにも関わらず、善知識方の説かれたことのない「三願転入の教え」という邪説を信じて、浄土門の人も19願から出発しなければならないと考えている人は、「宿善の薄い人」でしょう。
善をすれば、宿善が厚くなるなどという教えを信じている人も、親鸞聖人の教えと根本的に相違していますので、「宿善の薄い人」です。

お聖教を信じるか、高森会長の邪説を信じるかで、「宿善の厚薄」は決まります。根機にまかせて領解した結果、高森学徒に留まる人は、残念ながら「宿善の薄い人」と言わざるを得ません。

mixiにおける三願転入の法論23

2010年5月14日

 

mixiでの議論は、中断しておりますが、中断する前にこうへい氏がいくつか質問していました。ほとんどは、これまでに何人かの方が述べられたことを理解できない頓珍漢な質問です。
方便についての質問は、これまで詳しい議論がなされていませんでしたので、念の為解説しておきます。

> 浄土門に入って、親鸞聖人の教えを信じている人は、 
> 覚如上人のお言葉で言えば「浄土教を信受する機」であり、 
> 蓮如上人のお言葉で言えば「宿善の機」ということです。 
> ですから、「浄土教を信受する機」「宿善の機」は、 
> 【18願1つを聞けばよいというのが善知識方の教えです】。

未信の人が、18願だけで導かれるということですか? 
19願力も、20願力も不要と言われるのでしょうか? 
もしそうでしたら、19願力や20願力以外の、 
18願力に方便(信前)もある、ということになりますが、 
そのようなことを、親鸞聖人はどこにおっしゃっているのでしょう?

方便ということが全く理解されていないことから起きてきた疑問です。
方便については、少しでも調べる気になれば、解説は一杯ありますので、それを読めば理解できるのですが、高森会長の珍説を頭から信じ込んでいますので、こんな御粗末な質問が出てくるのです。

21世紀の浄土真宗を考える会」では、何回も解説がありますが、善巧方便と権仮方便のところで引用されていたものを紹介しておきます。

木村世雄氏著「『歎異抄』における真実と方便の関係」

・・・つまり方便には《善巧方便》と《権仮方便》の二種類があるというのである。
《善巧方便》
 仏・菩薩が衆生をさとりに導くために、衆生の素質や能力に応じて巧みに化する大悲の具現としての手段、方法、巧妙の智用。
《権仮方便》
 真実の法に入らしめるために仮に設けた法門のこと。方便願、方便の行信、方便化身土というようなものがこれに相当する。この方便は、一度真実に入ったならば不要となり廃されるため暫用還廃(暫く用いて還りて廃す)の法といわれる。

と説明される。

 前者の意味での方便とは娑婆世界の衆生を証果へといざなう方法という意味であり<方便智>あるいは<権智>とも称する。要するに如来の智慧の働きを土台にして巧みな教化方法のことである。善巧方便はまた真実を知ったからといって捨て去ってよいというものではない。
 対する権仮方便は親鸞の「化身土文類」の土台でもある。権仮方便は真実を知りえないものを真実に入らしめるために一時的に用いる方便であり、真実に触れたならばそれを廃し去る方便を意味する。

 伝統的な宗学の解釈では「随自意の法門」と「随他意の法門」とに分けて善巧方便と権仮方便の立場を区別化される。

 「随自意の法門」とは善巧方便のことである。仏の自らの意にかなって用いられる教化の方法であるからそのように称される。それは大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度されるという意味で、阿弥陀仏を「方便法身」というときの方便がそれである。『唯信鈔文意』において二種法身が語られる方便はこの善巧方便に該当する。
 法性法身自身が法性法身とはいかなる法身であるのかを巧みに表現するために、方便法身として「形をあらはして」説明されるのが善巧方便である。法性法身と方便法身は決して別物ではなく、ただ法性と対した時に便宜的に方便と称されているだけで、方便法身は法性法身の世界に達するまでの階梯といった意味ではない。法性法身は全性修起して方便法身を全うじるものである。

 対して「随他意の法門」とは権仮方便のことであり、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受け取れないから、その機(すなわち阿弥陀仏自身から見た「他」のことで、すなわち衆生のこと)に応じて仮にしばらく誘引のために用いられる教えをいう。機が真実の法門に入ったならば、権化の法門は不要となり還りて廃せられる。このように暫く用いるが後には還って廃するような方便を権仮方便もしくは「随他意の法門」という。それは具体的には第十九願(要門)・第二十願(真門)の世界のことを指している。
浄土和讃』「大経讃」には、

 聖道権仮の方便に
 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる
 悲願の一乗帰命せよ

とある。
また『愚禿鈔』巻下には

 上よりこのかた一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく、六種の正に対して六種の雑あるべし。雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、ゆゑに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。おほよそ聖道・浄土、正雑、定散、みなこれ回心の行なりと、知るべし。

とし、ここでは定散二善の聖道行を「回心の行」と名づけることによって、遂には第十八願の信心の世界へと導かれていく雑行であるとされている。

権仮方便とは、18願を信じられず、18願の救いを願わない未熟な機のためになされるものです。18願の救いを願っている人に対しては、19願、20願の権仮方便は廃すべきものです。こうへい氏は、善巧方便と権仮方便の区別が全くないのです。
もちろん高森会長が判っていないことが元です。

真宗学のイロハも知らないようでは、議論が成立する筈も無く、都合の悪い人物を排除するのが最善の方法と判断したのでしょう。

恥ずかしい質問をしているこうへい氏に、善巧方便と権仮方便の意味を誰か教えて挙げてくださいよ。

mixiにおける三願転入の法論24

2010年5月15日

 

前回の続きですが、方便についてこうへい氏が根拠を出せと求めています。自分は根拠を出さない(出せない)のに、他人に対しては高圧的な態度を平気でとれるところが、親鸞会講師部員らしいところです。

権仮方便について親鸞聖人が仰ったところは、

教行信証』化土巻

これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。

浄土和讃』大経讃

念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ

聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ

です。聖道門と要門について、権仮方便と仰っています。
さて、親鸞聖人の教えを信じている人(18願での救いを願っている人)に対して、権仮方便である聖道門が必要と仰っているのでしょうか、不要と仰っているのでしょうか。
聖道門と同列の要門については、どうでしょうか。

まさか、聖道門は不要だけども、要門は必要という矛盾したことは答えないでしょうね。
と言いたいところですが、親鸞会は、その矛盾した答えを平然と言ってくるでしょう。

親鸞聖人が、18願での救いを願っている人に対して、19願が必要であると仰った箇所があるとでも思っているのでしょうか。親鸞聖人は、19願は化土往生しかできないから、19願を願うことを厳しく誡めておられます。

根拠は?

と尋ねられれば、こうへい氏の真似をして、

教行信証』全体

と答えておいてもよいですが、もう少し絞って化土巻としておきましょう。

化土巻だけでなく他の御著書も皆、19願の誡めですが、読解力の乏しいこうへい氏のために、『正像末和讃』誡疑讃を挙げておきます。これまでに何回も誡疑讃を紹介してきましたが、M野氏じゃないyo氏のように理解できない方もまだあるようですので、本願寺の現代語訳も付けて、すべての御和讃を挙げておきます。

不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり

(訳)
仏の智慧を明らかにさとらない証拠として、 如来のいろいろな智慧を疑い、 
善悪の因果のみを信じ、 自力念仏の功徳を頼みにするので、 浄土の片隅の方便化土に止まるのです。

仏智の不思議をうたがひて 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて 仏恩報ずるこころなし

(訳)
仏の智慧の想いや言葉に尽くせない不思議の本願を疑って、 自力の念仏を好む者は、 
浄土の片隅や慢心の世界に止まって、 仏のご恩を報謝する心がおこらないのです。

罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる

(訳)
善悪の因果を信じる行者は、 仏の智慧の言葉に尽くせないほど不思議の本願を疑って
疑城胎宮に止まるので、 真実報土の仏・法・僧から離れてしまうのです。

仏智疑惑のつみにより 懈慢辺地にとまるなり
 疑惑のつみのふかきゆゑ 年歳劫数をふるととく

(訳)
仏の智慧や本願を疑う罪により、 懈慢界や浄土の辺地に止まるのです。 
疑う罪の深さにより、 この場所で長い長い間むなしく過ごすのだと、 釈尊はお説きなさったのです。

転輪皇の王子の 皇につみをうるゆゑに
 金鎖をもちてつなぎつつ 牢獄にいるがごとくなり

(訳)
自力の念仏の行者が化土に止まるのは、 まるで転輪聖王の王子が聖王に背そむいた罪により、 
金の鎖でつながれて牢獄に閉じこめられるようなものなのです。

自力称名のひとはみな 如来の本願信ぜねば
 うたがふつみのふかきゆゑ 七宝の獄にぞいましむる

(訳)
自分をたのんで称名する人は、 如来の本願を信じないので、 
その疑いの罪が深いから、 七宝で飾られた疑城胎宮に閉じこめられるのです。

信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も
 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし

(訳)
仏智を疑う自力の念仏の行者でも、 他力信心の人に劣らないように救おうとしてくださる
如来の大悲のご恩を思い知って、 他力の称名念仏に励みましょう。

自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける

(訳)
自分の力で善行を積み浄土往生を願う人はみんな、 言葉に尽くせない仏智の本願を疑うので、 
善悪因果の道理に従って自分が作った原因を身に受けて、 七宝で飾られた疑城胎宮に止められるのです。

仏智不思議をうたがひて 善本・徳本たのむひと
 辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり

(訳)
仏智不思議の本願を疑って、 念仏する功徳によって浄土に往生しようとする自力の人は、 
浄土の片隅や懈慢界に生まれるので、 阿弥陀如来の救いの大慈もいただけないのです。

本願疑惑の行者には 含花未出のひともあり
 或生辺地ときらひつつ 或堕宮胎とすてらるる

(訳)
本願を疑う行者には、 化土の蓮華の花に包まれて出られない人もいます。 
あるいは浄土の片隅に生まれる者と嫌われ、 あるいは疑城胎宮に堕ちる者として捨てられるのです。

如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなほもまた
 罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり

(訳)
如来のいろいろな智慧を疑って、 他力の念仏を信じることができないまま、 
やはり善悪因果の道理のみを信じ、 自力念仏がすぐれていると励んでいる者がいるのです。

仏智を疑惑するゆゑに 胎生のものは智慧もなし
 胎宮にかならずうまるるを 牢獄にいるとたとへたり

(訳)
仏の智慧の本願を疑うので、 母の体内のような方便化土に生まれる者は、 智慧をいただくこともありません。 疑城胎宮に生まれることを牢獄に閉じこめられていると譬えたのです。

七宝の宮殿にうまれては 五百歳のとしをへて
 三宝を見聞せざるゆゑ 有情利益はさらになし

(訳)
七宝で飾られた疑城胎宮に生まれると、 五百年もの間閉じこめられて
真実報土の三宝を見聞きすることがないので、 この世に還相して人びとを救うことは全くできないのです。

辺地七宝の宮殿に 五百歳までいでずして
 みづから過咎をなさしめて もろもろの厄をうくるなり

(訳)
浄土の片隅の七宝で飾られた疑城胎宮にいて、 五百年もの間そこから出られないで、 
自分がおこした疑いなどのとがや罪によっていろいろな厄を受け、 不安で危険な状態にいるのです。

罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに 方便化土にとまるなり

(訳)
善悪因果の道理を深く信じて、 自力念仏に励んでいる人は、 
本願を疑う善人なので、 真実の浄土ではなく、 方便化土に止まるのです。

弥陀の本願信ぜねば 疑惑を帯してうまれつつ
 はなはすなはちひらけねば 胎に処するにたとへたり

(訳)
阿弥陀如来の本願を信じないので、 心に疑いを持ち続けたまま往生はしますが、 
往生した所の蓮華の花のつぼみはすぐには開かないので、 母の体内にまだいるのと同じだと譬えたのです。

ときに慈氏菩薩の 世尊にまうしたまひけり
 何因何縁いかなれば 胎生・化生となづけたる

(訳)
ある時弥勒菩薩は釈尊に 
「どのような因縁によって、 往生を胎生・化生と区別して名付けられたのですか」 と申し上げました。

如来慈氏にのたまはく 疑惑の心をもちながら
 善本修するをたのみにて 胎生辺地にとどまれり

(訳)
釈尊は弥勒菩薩に、 「本願を疑う心を持ったまま
自力の念仏を励んで、 その功徳で往生しようとするために胎生するのであり、 方便化土の辺地に止まっているのだ」 とお答えになった。

仏智疑惑のつみゆゑに 五百歳まで牢獄に
 かたくいましめおはします これを胎生とときたまふ

(訳)
釈尊は、 「仏の智慧の本願を疑う罪により、 五百年もの間、 牢獄に
厳しく捕らえられている。 これを胎生というのだ」 とお説きなさったのです。

仏智不思議をうたがひて 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば 胎生のものとときたまふ

(訳)
仏智不思議の本願を疑って、 念仏する功徳によって浄土に往生しようとする自力の人は、
浄土の片隅や懈慢界に生まれるので、 阿弥陀如来の救いの大慈もいただけないのです。

自力の心をむねとして 不思議の仏智をたのまねば
 胎宮にうまれて五百歳 三宝の慈悲にはなれたり

(訳)
自力往生の心を最高のよりどころとして、 想いや言葉に尽くせない仏の智慧の本願のはたらきを信じないので、 
方便化土の疑城胎宮に生まれて五百年もの間、 阿弥陀如来の三宝の慈悲から離れ、 閉ざされているのです。

仏智の不思議を疑惑して 罪福信じ善本を
 修して浄土をねがふをば 胎生といふとときたまふ

(訳)
釈尊は、 「仏智不思議の本願を疑って、 善悪因果の道理を信じて、 自力の称名によって
浄土に生まれたいと願う者を、 胎生の者というのだ」 とお説きなさったのです。

仏智うたがふつみふかし この心おもひしるならば
 くゆるこころをむねとして 仏智の不思議をたのむべし

(訳)
仏の智慧の本願を疑う罪はたいへん深い。 疑う心の罪の深さを思い知るならば、 
それを悔いる心でもって、 仏の智慧の想いや言葉に尽くせない不思議の本願におまかせしましょう。

すべて通して読まれると親鸞聖人が何を教えられているかがよく判る筈です。
すべて権仮方便である19願と20願を厳しく誡められたお言葉です。

親鸞聖人の教えを信じている人に対しては、20願でさえ、厳しく誡められているのです。況んや19願をやです。

mixiでの議論は、このまま終了となる可能性が高いので、これもこうへい氏と、そのバックにいる人に誡疑讃について教えてあげて下さい。

mixiにおける三願転入の法論25

2010年5月17日

 

権仮方便ということを踏まえた上で、蓮如上人が宿善と仰っておられるところを見てみましょう。
これまで、『御文章』3帖目第12通について説明してきました。

いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり
いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり(補足)

『御文章』4帖目には、宿善という言葉が何回も出てきていますので、すべて紹介します。

第1通

 それ、真宗念仏行者のなかにおいて、法義についてそのこころえなき次第これおほし。しかるあひだ、大概そのおもむきをあらはしをはりぬ。所詮自今以後は、同心の行者はこのことばをもつて本とすべし。これについてふたつのこころあり。

一つには、自身の往生すべき安心をまづ治定すべし。二つには、ひとを勧化せんに宿善・無宿善のふたつを分別して勧化をいたすべし。この道理を心中に決定してたもつべし。しかればわが往生の一段においては、内心にふかく一念発起の信心をたくはへて、しかも他力仏恩の称名をたしなみ、そのうへにはなほ王法を先とし、仁義を本とすべし。また諸仏・菩薩等を疎略にせず、諸法・諸宗を軽賤せず、ただ世間通途の義に順じて、外相に当流法義のすがたを他宗・他門のひとにみせざるをもつて、当流聖人(親鸞)の掟をまもる真宗念仏の行者といひつべし。

ことに当時このごろは、あながちに偏執すべき耳をそばだて、謗難のくちびるをめぐらすをもつて本とする時分たるあひだ、かたくその用捨あるべきものなり。そもそも当流にたつるところの他力の三信といふは、第十八の願に「至心信楽欲生我国」といへり。これすなはち三信とはいへども、ただ弥陀をたのむところの行者帰命の一心なり。

そのゆゑはいかんといふに、宿善開発の行者一念弥陀に帰命せんとおもふこころの一念おこるきざみ、仏の心光かの一念帰命の行者を摂取したまふ。その時節をさして至心・信楽・欲生の三信ともいひ、またこのこころを願成就の文(大経・下)には「即得往生住不退転」と説けり。あるいはこの位を、すなはち真実信心の行人とも、宿因深厚の行者とも、平生業成の人ともいふべし。されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。

しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこころを聖人の御ことばには「遇獲信心遠慶宿縁」(文類聚鈔)と仰せられたり。これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。

このゆゑに、宿善の有無の根機をあひはかりて人をば勧化すべし。しかれば近代当流の仏法者の風情は、是非の分別なく当流の義を荒涼に讃嘆せしむるあひだ、真宗の正意、このいはれによりてあひすたれたりときこえたり。かくのごときらの次第を委細に存知して、当流の一義をば讃嘆すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

第3通

 それ、中古以来当時にいたるまでも、当流の勧化をいたすその人数のなかにおいて、さらに宿善の有無といふことをしらずして勧化をなすなり。所詮自今以後においては、このいはれを存知せしめて、たとひ聖教をもよみ、また暫時に法門をいはんときも、このこころを覚悟して一流の法義をば讃嘆し、あるいはまた仏法聴聞のためにとて人数おほくあつまりたらんときも、この人数のなかにおいて、もし無宿善の機やあるらんとおもひて、一流真実の法義を沙汰すべからざるところに、近代人々の勧化する体たらくをみおよぶに、この覚悟はなく、ただいづれの機なりともよく勧化せば、などか当流の安心にもとづかざらんやうにおもひはんべりき。これあやまりとしるべし。

第7通

 そもそも、今月報恩講のこと、例年の旧儀として七日の勤行をいたすところ、いまにその退転なし。しかるあひだ、この時節にあひあたりて、諸国門葉のたぐひ、報恩謝徳の懇志をはこび、称名念仏の本行を尽す。まことにこれ専修専念決定往生の徳なり。このゆゑに諸国参詣の輩において、一味の安心に住する人まれなるべしとみえたり。そのゆゑは真実に仏法にこころざしはなくして、ただ人まねばかり、あるいは仁義までの風情ならば、まことにもつてなげかしき次第なり。そのいはれいかんといふに、未安心の輩は不審の次第をも沙汰せざるときは、不信のいたりともおぼえはんべれ。さればはるばると万里の遠路をしのぎ、また莫大の苦労をいたして上洛せしむるところ、さらにもつてその所詮なし。かなしむべし、かなしむべし。ただし不宿善の機ならば無用といひつべきものか。

第8通

 これしかしながら今月聖人の御正忌の報恩たるべし。しからざらん輩においては、報恩謝徳のこころざしなきに似たるものか。これによりて、このごろ真宗の念仏者と号するなかに、まことに心底より当流の安心決定なきあひだ、あるいは名聞、あるいはひとなみに報謝をいたすよしの風情これあり。もつてのほかしかるべからざる次第なり。そのゆゑは、すでに万里の遠路をしのぎ莫大の辛労をいたして上洛の輩、いたづらに名聞ひとなみの心中に住すること口惜しき次第にあらずや。すこぶる不足の所存といひつべし。ただし無宿善の機にいたりてはちからおよばず。しかりといへども、無二の懺悔をいたし、一心の正念におもむかば、いかでか聖人の御本意に達せざらんものをや。

第15通

 しかれば愚老当年の夏ごろより違例せしめて、いまにおいて本復のすがたこれなし。つひには当年寒中にはかならず往生の本懐をとぐべき条一定とおもひはんべり。あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。またはこの在所に三年の居住をふるその甲斐ともおもふべし。あひかまへてあひかまへて、この一七箇日報恩講のうちにおいて、信心決定ありて、われひと一同に往生極楽の本意をとげたまふべきものなり。

よくよく読んでみられれば、宿善・無宿善の機とは、『御文章』3帖目第12通と同じで、18願1つを願うように説かれた親鸞聖人の教えを信じる人、信じられない人ということです。
宿善の機には、18願1つを説かれた親鸞聖人の教えをそのまま話をすればよいのですが、無宿善の機には、誹謗のもとになるので、親鸞聖人の教えを説いてはいけないと蓮如上人は仰っています。つまり無宿善の機には権仮方便が必要ということを蓮如上人は間接的に仰っていることになります。一方で宿善の機に対して、権仮方便を説く必要があることなど、『御文章』のどこを読んでも見当たりません。

以上を踏まえれば親鸞会では超有名な「無宿善の機にいたりてはちからおよばず」も「まことに宿善まかせ」も、親鸞聖人の教えを信じられるかどうかという意味です。このお言葉から親鸞聖人の教えを信じて聞いている人に対して宿善を厚くせよ、という意味にはなりえません。

『御文章』を素直に拝読すれば、簡単に理解できることが、高森フィルターを通してしまうと、到底理解できない文底秘沈の解釈になってしまいます。
読解力までも衰えさせる思考停止思想が、親鸞会です。

mixiにおける三願転入の法論26

2010年5月18日

 

mixiでの三願転入のやりとりを通して、聖道門、19願、20願、18願の関係を説明してきました。親鸞会の邪義に染まった人でも、権仮方便ということがお判りになれば、正しい三願転入の意味が理解でき、親鸞会が言っているような「三願転入の教え」というものが如何に馬鹿げたものであるか気が付かれるのではないかと思います。

「用管窺天記」願海真仮で、私がこれまでに述べてきたことが巧く図示されていますので、そのまま引用させて頂きます。

  1. 18願での往生を願う人
  2. 20願での往生を願う人
  3. 19願での往生を願う人
  4. 聖道門で此土入聖を願う人
  5. 外道を信じている人

すべての人を大きく分けるとこの5種類になります。ところが親鸞会では18願で往生を願う人とは、信心獲得した人と考えて、信心獲得していない人は20願、19願の人とし、それどころか聖道門、外道を信じているとまでいい出していますから、18願で救われるためには、まず19願に入って、20願を通ってからしか18願に入ることができないという訳の判らない理論を押しつけます。

そんな無茶苦茶なことを親鸞聖人は教えられたのではありません。親鸞聖人の教えを聞いていた人に対して、18願での往生を願いなさい、これ1つを説かれているのです。

しかし、親鸞聖人の教えである18願での往生をとても信じられない人が多いのです。そんな人に対して、権仮方便により、18願での往生を願うよう調機誘引されるのです。

釈尊の説かれたことの99%が善の勧めであるのは何のためか、と親鸞会ではよくいいますが、それは外道を信じている人を聖道門に引き入れるためです。

阿弥陀仏が19願を建てられたのは何のためか? 聖道門の人を浄土門に誘引するためです。

阿弥陀仏が20願を建てられたのは何のためか? 19願での往生を願っている人を18願に転入させるためです。

18願での往生を願っている人のために、聖道門、19願、20願があるのではありません。

会員の皆さんは、平生業生の教えを昿劫多生の教えと変えた高森会長の詭弁に、いつまで騙され続けるつもりですか?

mixiにおける三願転入の法論27

2010年5月19日

 

mixiでの議論が、「親鸞会コミュニティ」から移動して行われるかもしれません。

親鸞会にとって都合の悪いコメントを削除し、議論に都合の悪い人物を排除するコミュニィでは、議論ができませんので、別のコミュニティに移動しての議論には賛成です。もし今後議論が再開されるのであれば、

  • 相手の質問には答える。
  • 自分の意見をハッキリ述べる。

この程度のルールは定めておくべきでしょう。親鸞会は、勝他のための議論しかしたことがありませんから、ルールを守らせることは無理だとは思いますが。

  • 自分の主張を明らかにするために相手に質問して答えてもらわなければならない

などというふざけた発言こそ削除すべきです。

さて、これまでのるぅでる氏、sutybi氏の主張を真氏がまとめて下さいましたので、少し補足修正して書いておきます。議論に参加されたい方は、参考にして下さい。

1.19願の対機について

『平等覚経』17願(前半が『大経』17願、後半が18願)

我作佛時。令我名聞八方上下無數佛國。 
諸佛各於弟子衆中。歎我功徳國土之善。 
【諸天人民蠕動之類】聞我名字。皆悉踊躍。 
來生我國。不爾者我不作佛

『平等覚経』18願(『大経』19願)

我作佛時。【諸佛國人民有作菩薩道者】。 
常念我淨潔心。壽終時我與不可計比丘衆。 
飛行迎之共在前立。即還生我國作阿惟越。 
不爾者我不作佛

『大阿弥陀経』4願(前半が『大経』17願、後半が18願)

使某作佛時。令我名字。皆聞八方 
上下無央數佛國。皆令諸佛。各於比丘僧大 
坐中。説我功徳國土之善。 
【諸天人民。蜎飛蠕動之類】聞我名字。 
莫不慈心歡喜踊躍者。皆令來生我國。 
得是願乃作佛。不得是願終不作佛

『大阿弥陀経』7願(『大経』19願)

使某作佛時。令【八方上下。無央數佛國。 
諸天人民。若善男子善女人。有作菩薩道。】 
奉行六波羅蜜經。若作沙門不毀經戒。 
斷愛欲齋戒清淨。一心念欲生我國。 
晝夜不斷絶。若其人壽欲終時。 
我即與諸菩薩阿羅漢。共飛行迎之。 
即來生我國。則作阿惟越致菩薩。智慧勇猛。 
得是願乃作佛。不得是願終不作佛

このように、18願の「十方衆生」と19願の「十方衆生」とは、本来意味が異なっていることが、『大経』異訳本から判ります。18願の「十方衆生」は、あらゆる生き物で、漏れているものはありませんが、19願の「十方衆生」は、菩薩道を作す者となっており、対機が限定されています。
このことを踏まえられてと思われますが、法然聖人は『選択本願念仏集』の中で、

釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、すなはちこれ弥陀の本願にあらざるゆゑなり。また念仏を付属する所以は、すなはちこれ弥陀の本願のゆゑなり。 いままた善導和尚、諸行を廃して念仏に帰する所以は、すなはち弥陀の本願たる上、またこれ釈尊の付属の行なり。ゆゑに知りぬ、諸行は機にあらず時を失す。念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。

と仰り、親鸞聖人は『尊号真像銘文』で

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

と解説しておられます。それで、『真宗大辞典』(永田文昌堂)の「十方衆生」の項には。

 四十八願中の第十八・第十九・第二十の三願には十方衆生とある。十方世界に棲息する無数の生類を総称して十方衆生という。即ち人類・天衆・禽獣・虫・魚等を総括してかく呼んだのである。第十九・第二十の両願には共に十方衆生とあって、広く一切衆生を救わんと譬える如くなれども、立願の精神を究れば、第十九願は修諸功徳に堪えて至心に発願し往生せんと願う者に限り第二十願は植諸徳本に堪えて至心に回向し願生する者に限る故に、漏らす所多々あれども、第十八願は十方衆生智愚善悪を問わず修行の堪不を論ぜず、皆ひとしく全く仏力にて救わんとする誓願なるが故に、一の衆生として漏るることがない。そこで第十八願の十方衆生の言は一衆生をも漏らすことなくその意が至極広いが、第十九・第二十の十方衆生の語は漏らす所多きが故に、その意は狭いとする。

とあります。
また梯實圓和上の『顕浄土方便化身土文類講讃』には

 親鸞聖人が第十八願・第十九願・第二十願の三願に真仮の別を見られたといったが、このように四十八願のなかに真仮を見るのは聖人の独自の発揮であ って、古今に例を見ないところである。 
(中略) 
 ところでこの三願に真仮を見られた祖意を先哲は種々に考察されているが、鮮妙師は、それらをまとめて、『宗要論題決擇編』巻一に、

 四十八願の至要たる「重誓偈」に徴するに、名号流布を誓て諸行を誓はず、 
 況んや六八願中多く聞名の得益を願ずと雖も諸行及び植諸徳本を誓はず。 
 又直ちに生因三願について伺ふに五由あるべし。一つには信行前後の異、 
 二つには信楽有無の異、三つには乃至有無の益、四つには得益定不の異、 
 五つには唯除有無の異これなり。

といっている。四十八願の中には聞名の益は説かれているが、諸行の益は説かれていないし、四十八願を要約した「重誓偈」にも諸行往生は説かれず、植諸得本も説かれず、ただ名号の流布のみを強調されているということは、第十八願の聞名往生を仏の随自意真実とみなされている証拠であるというのである。そして、さらに三願を対望して五由を挙げて詳細にその仏意を探っている。 
(中略) 
 五つに唯除有無の異とは、第十八願にのみ「唯除五逆誹謗正法」と逆謗抑止の文がおかれている。『尊号真像銘文』には、上の「若不生者」の釈につづいて、

 「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、 
 誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめ 
 して、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

といわれている。これによって第十八願の救済の対象となっている機は、五逆をつくり、正法を誹謗するような、極悪のものを含めた十方衆生であるから、善悪・賢愚を簡ばず一切の衆生を所被の機とされていることがわかる。これに対して第十九願・第二十願にこのような抑止の言葉がないのは、いずれも善人のみを所被の機とされていて、逆謗を抑止する必要がなかったからである。ここに、善人のみの救いを誓われる第十九願・第二十願と、特に悪人を回心させて救うことに焦点を合わせている第十八願との違いが明らかになるというのである。このようにして生因三願を対照すると、第十八願には他力廻向の行信による万人平等の救いが誓われており、第十九願・第二十願には自力の行信による往生が誓われていることがわかるのである。どちらに如来の平等の大悲の本意が顕われているかは明瞭である。

(中略)

 第十九願・第二十願は、自力の執着がふかく、罪(悪)福(善)の因果に則った廃悪修善の教えは信じても、善悪を超えた他力不思議の救いを受け容れることが出来ない未熟のものを育てるために施設された権仮方便の教えであるというのが親鸞聖人の領解であった。特に第十九願は、聖道門の機を浄土門に誘引するために諸行往生を誓われた方便の誓願であり、第二十願は、諸行往生の機を自力念仏の機に育て、さらに第十八願の他力念仏に入れしめるための方便願であるといわれている。

とあります。このように19願の対機は、菩薩道を行じられるいわゆる善人であることが明白です。

2.19願についての親鸞聖人の見解

上記の19願対機を踏まえられて、親鸞聖人は『教行信証化土巻・要門釈で

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。 偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。 
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

と仰っています。この解釈について梯實圓著『顕浄土方便化身土文類講讃』

 浄土門内の方便教を明かすについて、まず第十九願要門の意を明かし、次いで三経の陰顕を顕わし。最後に第二十願の意を釈されるが、その最初に方便教を説かねばならなかった仏意を明らかにされる。すなわち、釈尊の導きによって、真実に背いた外道を離れて聖道門に入ることができた者も、 なおその自力修行の厳しさゆえに、真実をさとり得た者は極めて少なく、せっかく一度は外道を離れて仏道に入りながら、内心は外道から離れることができず、再び邪道に退転してしまう偽の仏弟子も甚だ多かった。そのような状況を憐れんで、釈尊は聖道門から浄土門へと導くために権仮方便の法門を説かねばならなかったというのである。 
(中略) 
 そこで釈尊は浄土の教門を開いて行かれる。まず最初に開顕されたのが福徳蔵といわれる定善、散善によって往生を願う諸行往生の法門であった。その経典が『無量寿仏観経』であった。『観経』の散善顕行縁には、世、戒、行の三福散善を指して、「三世諸仏の浄業正因なり」といわれているように、諸仏の成仏道であった。また定善は、真身観に「無量寿仏を見たてまつれば、すなわち十方無量の諸仏を見たてまつる。無量の諸仏を見たてまつることを得るがゆゑに、諸仏は現前に授記す」といわれているように、諸仏から成仏の授記を得るための「般舟三昧」の行であった。したがって定散諸善の行体は、聖道門の諸行と同じ此土入聖の行であった。そのような聖道門の行を浄土に往生するための行として転換する心がすでに述べたように「至心発願欲生」の三心であり、『観経』でいえば「至誠心、深心、回向発願心」の三心だったのである。こうして、聖道門の修行をそのまま往生の行に転換させ、浄土に生まれさせることによって、聖道門に行き詰まっている行者を浄土門へと誘引し救っていかれるのである。

とあり、また山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』では

然るに五濁の世に汚された群萌、即ち煩悩悪業の含識は、今や諸仏の大悲に育てられて、漸く九十五種の邪道の網を脱れ出でて、仏教に教える所の半字教、満字教、又は権教、実教等の法門を信受し修道するようになっても、真に其の教へに入る者は甚だ得難く、如実の修道者は甚だ稀である。之に反して仏徒といふは名ばかりにて其の実は偽者が非常に多く、内心空虚の者が甚だ多い。 
釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下された。

として、聖道門の人を浄土門に誘引し、すでに浄土門に入っている人と共に18願真実門に導かれるとありまして、極めて素直な解釈です。

この要門釈は親鸞聖人独自の見解ではなく、法然聖人の教えを受け継がれています。

『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。

また親鸞聖人が間違いない人と尊敬されていた隆寛律師が言われていたと弟子が記した『広疑瑞決集』に

先師律師つねにのたまはく、隆寛こそ十九願の機よ。其故は、本と円宗の菩提心を発して、聖道の出離を期せしほどに、末法に生をうけたる身、涯分をしる故に、聖道の出離の叶ふまじきいはれを心得て、浄土門に入れるなり。

とあります。経典、法然聖人、隆寛律師のお言葉から親鸞聖人は19願を、聖道門の人を浄土門に誘引する願と見做されていたのです。

19願の役割を先程の要門釈の後に、

宗師(善導)の意によるに、「心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり。漸・頓すなはちおのおの所宜に称へり。縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る」(玄義分)といへり。
しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。 
「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。

とも仰っています。これを言い換えて仰ったのが、『一念多念証文』です。

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。 
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

なお、「浄土の方便の善」につきましては、『教行信証』化土巻・三経隠顕問答で

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。

と仰っていますので、「浄土の方便の善」=「欣慕浄土の善根です。
聖道門の人を「欣慕浄土の善根により浄土門に誘引するのが要門19願であり、すでに浄土門に入っている人と共に、「本願一乗海である18願に導き入れると仰っているのです。
ですからすでに浄土門に入っている人を「欣慕浄土の善根により要門19願に導くという意味ではありません。

浄土門の人に対して親鸞聖人は、三願を真仮廃立で教えておられます。『教行信証』『三経往生文類』等にも教えられていますが、最も顕著なのが『正像末和讃』の誡疑讃です。誡疑讃は23首ありますが、19願について明確に仰ったは以下の1首のみです。

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがえば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

あとは20願の誡めです。

19願を願うことを厳しく誡められているだけで、19願を勧められているところは1箇所もありません。

3.覚如上人、蓮如上人の教え

覚如上人『口伝鈔』

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

蓮如上人『御文章』3帖目第12通

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。 
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

覚如上人、蓮如上人が仰っている「宿善の機」とは、「浄土教を信受する機」のことです。つまり、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられる人は、宿善の機であり、聖道門の教えを信じて、また聖道門から浄土門に入りながらも法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えを素直に信じられない人は、「無宿善の機」ということになります。 
蓮如上人の仰る「宿善にかぎれり」とは、 18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられるかどうかです。

4.結論

親鸞聖人は19願を聖道門の人を誘引する願と仰り、浄土門の人には19願を勧められていませんので、すでに浄土門に入っている人が、19願を必ず通らなければ18願に入れないという「親鸞聖人の三願転入の教え」というものはありません。
浄土門に入って、親鸞聖人の教えを信じている人は、覚如上人のお言葉で言えば「浄土教を信受する機」であり、蓮如上人のお言葉で言えば「宿善の機」ということです。
ですから、「浄土教を信受する機」「宿善の機」は、18願1つを聞けばよいというのが善知識方の教えです。19願に心を掛けていることは、親鸞聖人が『唯信鈔文意』で

みづからが身をよしとおもふこころをすて

と仰っていることですから、すぐに捨て去るべき心です。