親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より

浄土真宗親鸞会が、退会者との法論に惨敗逃亡した記録 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」より抜粋

mixiにおける三願転入の法論22

2010年5月8日

 

『口伝鈔』十四章には、親鸞会では有名な、「体失不体失往生の諍論」について書かれています。全文を見てみましょう。

一 体失・不体失の往生の事。

 上人[親鸞]のたまはく、先師聖人[源空]の御とき、はかりなき法文諍論のことありき。善信(親鸞)は、「念仏往生の機は体失せずして往生をとぐ」といふ。小坂の善恵房[証空]は、「体失してこそ往生はとぐれ」と[云々]。この相論なり。

 ここに同朋のなかに勝劣を分別せんがために、あまた大師聖人[源空]の御前に参じて申されていはく、「善信御房と善恵御房と法文諍論のことはんべり」とて、かみくだんのおもむきを一々にのべまうさるるところに、大師聖人[源空]の仰せにのたまはく、善信房の体失せずして往生すとたてらるる条は、やがて「さぞ」と御証判あり。善恵房の体失してこそ往生はとぐれとたてらるるも、またやがて「さぞ」と仰せあり。

 これによりて両方の是非わきまへがたきあひだ、そのむねを衆中よりかさねてたづねまうすところに、仰せにのたまはく、「善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。〈如来教法元無二〉(法事讃・下)なれども、〈正為衆生機不同〉(同・下)なれば、わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。念仏往生は仏の本願なり、諸行往生は本願にあらず。念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。本願の文あきらかなり、かれをみるべし。つぎに諸行往生の機は臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず。このゆゑにこの穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりてそのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。勝劣の一段におきては、念仏往生は本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる。諸行往生は、非本願なるによりて定散の機にかぎる。本願念仏の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と、殿最懸隔にあらずや。いづれも文釈ことばにさきだちて歴然なり」。

ここで法然上人が仰っているお言葉として、「宿善の厚薄」と書かれています。この意味は、前の部分を読まれればわかります。同じ教えを聞きながら、「わが根機にまかせて領解」することで、念仏往生と諸行往生と考え方が違ってくるということです。つまり、

宿善の厚い人」=「念仏往生の機
宿善の薄い人」=「諸行往生の機

ということです。これは、以前から紹介している『口伝鈔』の二章にある

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

と同じ意味で、覚如上人は「宿善」という言葉を使われています。

宿善あつきもの」=「浄土教を信受する機
宿福なきもの」=「浄土教を信受せざる機

です。

以上をまとめますと、

宿善の厚い人」とは、18願の平生業成、不体失往生、念仏往生を信じて願う人のことであり、言い換えれば親鸞聖人の教えを信じる人のこと。
宿善の薄い人」とは、19願の臨終来迎、体失往生、諸行往生を願う人のこと。
宿善の無い人」とは、浄土仏教を信じられない、聖道仏教や外道を信じている人のこと。

といえると思います。「宿善の薄い人」と「宿善の無い人」とは、一括りにしても良いかも知れません。
親鸞聖人の教えを信じている人は「宿善の厚い人」、親鸞聖人の教えを信じられない人は「宿善の薄い人」もしくは「宿善の無い人」です。

親鸞聖人は18願1つを教えられました。それにも関わらず、善知識方の説かれたことのない「三願転入の教え」という邪説を信じて、浄土門の人も19願から出発しなければならないと考えている人は、「宿善の薄い人」でしょう。
善をすれば、宿善が厚くなるなどという教えを信じている人も、親鸞聖人の教えと根本的に相違していますので、「宿善の薄い人」です。

お聖教を信じるか、高森会長の邪説を信じるかで、「宿善の厚薄」は決まります。根機にまかせて領解した結果、高森学徒に留まる人は、残念ながら「宿善の薄い人」と言わざるを得ません。