親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より

浄土真宗親鸞会が、退会者との法論に惨敗逃亡した記録 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」より抜粋

mixiにおける三願転入の法論28

2010年5月22日

 

mixiでは、新しいトピックに移って、三願転入の議論が再開されるのかと期待しましたが、こうへい氏は”親鸞会コミュニィ”という親鸞会がルールという条件下でなければ、議論をしないと宣言してしまいました。
予想したこととはいいながらも、親鸞会の弱腰には哀愁が漂っています。

さて、親鸞聖人は『教行信証』化土巻・要門釈の一番最後に

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と仰っています。

現代語訳は

以上のようなことから、 源信和尚の解釈をうかがうと、 往生要集の念仏証拠門の中に、 第十八願について、 四十八願の中の特別な願であるとあらわされている。 また 観無量寿経に説かれる定善・散善を修めるものについて、 きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。 五濁の世のものは、 出家のものも在家のものも、 よく自分の能力を考えよということである。 よく知るがよい。

です。
浄土往生を願っている人に対して、「ただ弥陀を称せよ」なのです。「まず諸善を修せよ」ではありません。親鸞会に長年いましたが、この御文については一度も聞いたことがありませんでした。
これこそ、「三願転入の教え」を否定する結論です。

もとの『往生要集』念仏証拠を見れば、それがよりはっきりします。

三には、四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく、「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」と。 
四には、『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

源信僧都は、三が18願の説明、四が『観無量寿経』下下品についての説明です。

極重の悪人は、他の方便なし。

こうへい氏が、

未信の人が、18願だけで導かれるということですか? 
19願力も、20願力も不要と言われるのでしょうか? 
もしそうでしたら、19願力や20願力以外の、 
18願力に方便(信前)もある、ということになりますが、 
そのようなことを、親鸞聖人はどこにおっしゃっているのでしょう?

という自信満々の質問をしていますが、その回答です。
ただし、ここの源信僧都のお言葉に、親鸞聖人は「定散の諸機は」と付け加えられています。その御心について、山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』には、

我が聖人の御思召を伺ふに、上来説き明し来れるが如く、弥陀如来に方便の第十九願あり、釈迦如来は『観経』に定散両門を開いて、諸機を化益し給うたが、これ畢竟、方便誘引の教門である。横川の源信僧都も第十八願は別願中の別願であると宣うてある。又、極重悪人無他方便唯称弥陀得生極楽と勧め給うて在ます。されば方便要門の法に滞らず、弥陀如来の別願中の別願たる真実弘願の方に帰命して、真実報土に往生せねばならぬ。又、『観経』には表に定散の諸機について定散両善を勧めてあるけれども、実を剋すれば、すべてこれ極重の悪人である。されば弥陀の名号を称念して浄土往生を得るほかはないという意である。これで「化巻」初めの「是を以て釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本と誓願を発して普く諸有海を化し給ふ」にかつきりと当るのである。釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説し給ふも、実は極重悪人無他方便唯称弥陀の弘願法を説かんがためであり、阿弥陀如来の誓願を発し給ふも別願中の別願第十八願を以て衆生を救はんためであるといふことになるのである。

とあります。

山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』で、こうへい氏は要門釈について断章取義して喜んでいましたが、意味はお判りでしょうか?

さて、こうへい氏は、これでも信前の人は19願を必ず通らなければならない必要な方便と主張するのでしょうかね。