親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より

浄土真宗親鸞会が、退会者との法論に惨敗逃亡した記録 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」より抜粋

mixiにおける三願転入の法論8

2010年4月11日

 

昨日、『一念多念証文』の以下の御文について少し述べました。

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。 
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

この「方便の善」は、浄土門の人も善をしなければならないと親鸞会では教えていますが、論理がおかしいのです。
『顕真』3月号には、上記のお言葉を挙げて、

 これら仏教で教えられる諸善万行は、『観無量寿経』に説かれる定散二善に集約される。
『観経』は、「弥陀の浄土に往生したい」と弥陀の救いを求める韋提希夫人と未来の人々(私たち)のために、釈尊が説かれたものだ。言うまでもなくそれは、善を実行させるためである。

 要ず通らねばならぬ門

 弥陀の本願一つを説くことを出世の本懐とされた釈尊が、なぜ廃悪修善をかくも勧められるのか。
 この修善の勧めが、弥陀の救いと無関係であるはずがない。
 親鸞聖人はズバリ、
「みなこれ浄土の方便の善なり」
「これみな浄土方便の要門なり」
と断定されている。
 すべては弥陀の本願(十八願)に相応させ、浄土往生を果たさせるためのご方便であったのだ。
 それは、釈迦の独断ではない。阿弥陀如来が、十方衆生を真実の十八願の救済に導かんがために、方便の十九願で「修諸功徳」と勧められているからである。

と書いていますが、「善を実行させるため」と勝手な解釈をしています。
つまり
浄土の方便の善」=「善の実行
としていますが、こんな意味である訳がないです。

昨日もいいましたし、mixiでも問題になっていましたが、親鸞聖人のお言葉を解釈する時の元になるのが御本典である『教行信証』です。『教行信証』化土巻の要門釈には、善の実行、善の勧めと解釈できそうなところは、全くありません。要門を勧められてもいません。

要門とは、聖道門の人を浄土門に入れるための門であって、浄土門に入った人が要門を通るのではありません。
たとえていえば、聖道仏教という地域から浄土仏教という地域の境界にあるのが、要門ですから、浄土仏教という地域にいる人が、要門を潜る必要はありません。聖道仏教という地域にいる人に、浄土仏教という地域に行きたいと思わせるのが、「方便」であり、「欣慕浄土の善根」なのです。

それが判れば、親鸞会の解釈が如何におかしいかが判られるのではないでしょうか。

『一念多念証文』の浄土真宗教学研究所による現代語訳を参考までに紹介しておきますので、これまでのことを踏まえて何度も読んで下さい。

総じて八万四千といわれる釈尊の教えは、みな浄土の教えに導く方便としての善なのである。これを要門といい、これを仮門と名づけるのである。この要門・仮門というのは、すなわち『観無量寿経』にお説きになっている定善・散善の教えである。定善とは、心を一つに定めて修める十三の観察の行であり、散善とは、散漫な心のまま修める三福の行であり、九品のものの修めるさまざまな善である。これらはみな浄土の教えに導く方便としての要門であり、これを仮門ともいうのである。この要門・仮門により、さまざまな衆生を導き育んで、阿弥陀仏の本願すなわち一乗円融無礙の真実功徳の大宝海に導き入れてくださるのであるから、すべての自力の善は、これを方便の教えというのである。

親鸞会のトリックがお判りになりましたか?