親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より

浄土真宗親鸞会が、退会者との法論に惨敗逃亡した記録 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」より抜粋

mixiにおける三願転入の法論7

2010年4月10日

 

親鸞会では、『一念多念証文』の以下の御文をもって、親鸞聖人の善の勧め、19願の勧めと教えています。

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。 
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

方便の意味が根本的に間違っていますので、そのような解釈しかできないのでしょう。
昨日も紹介しました『教行信証』化土巻・要門釈

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。 偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。 
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

の意味を踏まえられれば、聖道門の人を浄土門に導き入れるものが、要門であり、仮門と言われているのです。
浄土の方便の善」を宿善と言い換えていますが、これも間違いです。この後の三経隠顕問答に、

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。

とありまして、「如来の異の方便、欣慕浄土の善根」と仰っています。釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるための善ということです。

ここの部分の解釈を山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』から引用します。

『無量寿仏観経』を解釈せられた善導大師の御意見に依りて本経を考えて見るに、本経には顕の義と彰隠密の義の二面の意義がある。即ち一文に表裏の二義があるのである。彰は陰からあらはすこと、陰は顕に対して文の幽意を示し、密は如来の密義のこと。
(中略)
其の中、経の顕の義といふは、行の方面から云へば定善散善の諸善萬行をあらはしてあり、信の方面」から云へば上中下の三輩の機類に通ずる自力の三心を開説してあるのが夫である。『観経』一部を表面から見れば、この自力の信行のほかはない。然るに定善散善の二善、そして其の中の散善の内容たる三福九品の善根は、真実報土に往生する真因ではない。これ等、定善散善を修める機類は夫々根機が様々に分れてをるから、其の起す所の三心も各自の能力に応じて異ってゐる自力の三心であり、如来廻向の絶対他力の一心でない、相対有限の信である。即ち如来が特に方便を垂れ給ひて、自力修善に係ってゐる人々をして、浄土を欣慕せしめ給ふ方便の善根に過ぎないのである。されば本経一部の顕説は、他力の三心に引入せしめんがための方便たる定散二善であることが知られるのである。

ですから
「浄土の方便の善」=「欣慕浄土の善根」
です。あくまで自力修善に係ってゐる人々、つまり聖道門の人を浄土門へ導き入れるための方便ということです。

浄土門の人が善をして宿善となるものだと考えることは、大間違いです。

高森会長も、親鸞聖人の教えは『教行信証』によらなければならないと教えながら、『教行信証』の要門釈さえも知らないから、こんなデタラメの解釈をして平気でおれるのです。

mixiでも、「こうへい」氏は『一念多念証文』のこの御文を挙げて、浄土門の人にも善を勧められ、阿弥陀仏が宿善として下さると主張していますが、誤解も甚だしいです。

二善・三福は報土の真因にあらず

親鸞聖人が仰っていることがまるで理解されていません。報土の真因ではないが、獲信の因縁(宿善)になるといっているのだ、と反論がありそうですが、なりません。そんなことは、どこを探しても書かれてありません。

宿善の意味は
「親鸞会教義の誤り」宿善とは
の部分を詳しく読んでください。

高森会長は無理ですが、親鸞会の講師部員は『教行信証』を真面目に読んでから、人に教えを伝えるべきでしょう。
高森会長の著書を読んで得られるものは、貧と恥のみです。